第1話:桜の木の下の英雄
ドォォォォォン!!
鼓膜をつんざく爆音が、思考を白く染め上げる。 土煙と硝煙の匂いが、鼻孔を焼き尽くす。
……熱い。 体中が焼けるように熱い。
俺――いや、自分は、瓦礫の山となった陣地の真ん中で、折れた軍刀(サーベル)を杖にして立っていた。 視界の端で、小隊の仲間が倒れている。 誰も動かない。もう、声も聞こえない。 残っているのは、自分一人だ。
『……撤退だ! 軍曹殿、もう無理だ! これ以上は無駄死にです!』
通信兵が最後に残した、悲痛な叫びが耳に張り付いている。 確かに、戦況は絶望的だった。 弾薬は尽きた。水もない。援軍など来るはずもない。 圧倒的な敵の兵力が、すぐそこまで迫っている。
だが、自分は引かなかった。 引くわけにはいかなかった。
(……退かん)
自分は血の泡を吐きながら、迫りくる敵影を睨みつけた。
この陣地を突破されれば、後方の防空壕にいる民間人たちまで火の手が回る。 あの中には、女子供もいる。 そして何より――最愛の妹、ミヨもいるのだ。
「……貴様らに、この誇り高き祖国の土は踏ませめん……!」
足の感覚はない。 軍服はボロボロで、血にまみれている。 傍から見れば、ただの死に損ないの敗残兵だろう。
それでも、自分は軍帽を被り直し、背筋を伸ばした。 恐怖はない。あるのは、愛する者を守るという、鋼のような意志だけだ。
自分は「死にに行く」のではない。 後ろにいる命を「生かす」ために、ここで盾となるのだ。
「来いッ!! 日本男児の魂、その目に焼き付けてくれるわァァァ!!」
自分は咆哮を上げ、最後の一瞬まで、決して膝をつかなかった。 その姿が、後に語り継がれるとも知らずに――。
***
「……ハッ!?」
軍曹は、ガバッと身体を起こした。
そこは焦土と化した戦場ではなかった。 エアコンの冷気が肌を撫でる、静かな教室。 窓の外からは、けたたましい蝉の声が降り注いでいる。
「おい軍曹、大丈夫か? すげえうなされてたぞ」
隣の席でスマホをいじっていたデジタルが、不思議そうに顔を覗き込んでいる。 教壇には田中教官が立ち、心配そうな顔をしていた。
「……夢、か」
軍曹は額の汗――いや、冷たいエクトプラズムを拭った。 手の震えが止まらない。 80年経った今でも、あの日の熱気と、火薬の匂いが染み付いている。
「今日は8月6日だ。……時期が時期だけに、古傷が痛むようだな」
田中教官が、お茶(供え物)を置いてくれた。 軍曹はそれを一気に飲み干し、息を整えた。
「申し訳ありません。……授業中に居眠りとは、軍人にあるまじき失態」 「いいんじゃよ。わしにも覚えがある」
最前列で、銀之助(ミサイル爺さん)がぽつりと呟いた。 彼は普段のふざけた態度を消し、遠い目をして窓の外を見ていた。
「わしらが子供の頃は、夏といえば空襲警報じゃったからのう。……お前さん、相当な修羅場をくぐった顔をしておるな」
軍曹は銀之助を見た。 この老人だけは、自分と同じ「あの時代」の空気を知っている。
「……自分は、逃げ遅れてここに来たのではありません」
軍曹は静かに語り始めた。
「あの日、私は殿(しんがり)を務め、全滅しました。……ですが、私の魂はあの場所を離れなかった」
「地縛霊になったのか?」 田中が聞く。
「はい。私の実家の近くに、一本の大きな桜の木がありました。私は出征する前、妹のミヨと約束したのです。『桜が散る頃には帰る』と」
軍曹の脳裏に、モンペ姿の小さな妹が浮かぶ。 泣きながら手を振っていた、あの笑顔。
「だから私は、死んでもなお、その桜の木の下に立ち続けました。80年間、雨の日も、雪の日も。……ミヨが帰ってくるのを待つために」
教室が静まり返る。 デジタルがスマホを置いた。
「80年……マジっすか。ずっと、そこで?」
「ああ。時代は変わり、景色は変わり、人々が変わっていっても、私だけはあの木の下で、直立不動のまま待ち続けました。……それが、私なりの『戦争』の続きだったのです」
軍曹は拳を握りしめた。
「ですが、今年の春。……再開発の工事で、その桜の木が切り倒されてしまった」
それが、彼がこの教習所に入学してきた理由だった。 依り代(よりしろ)を失い、行き場をなくした魂は、浮遊霊となってここに流れ着いたのだ。
「無念です。……約束を果たせぬまま、根無し草になってしまうとは」
軍曹が俯く。 その背中は、いつもの「口うるさいキャラ」ではなく、歴史の波に飲み込まれた、一人の悲しい青年のものだった。
「……じいさん」
デジタルが小声で言った。
「その妹さん……ミヨさんだっけ? まだ生きてるんすかね」 「分からん。生きていれば90歳近いだろう」
田中教官が、軍曹の肩に手を置いた。
「軍曹。……探してみないか?」 「えっ?」 「君が80年守り抜いた国だ。情報網は発達している。デジタル、お前の出番だろ?」
田中が目配せすると、デジタルはニカッと笑った。
「了解っす。80年前の人探しなんて無理ゲー臭いっすけど……俺の検索スキル舐めないでくださいよ」
デジタルがスマホを高速でタップし始める。
「軍曹さん、当時の住所と名字、教えてください。……過去の戸籍データから、戦災孤児の記録、全部洗ってみます」
軍曹は呆然と彼らを見た。 平和ボケした若者だと思っていた。 軟弱な教官だと思っていた。 だが、彼らの目は真剣だった。
「……感謝する」
軍曹は立ち上がり、深く敬礼した。 窓の外では、蝉たちが命の限り鳴き叫んでいる。 止まっていた軍曹の時計が、80年ぶりに動き出そうとしていた。
(第1話・完)