第9話:特異点(シンギュラリティ) ~事象の地平線に立つ者~
十二月。 師走と呼ばれるこの時期、世界は本来なら年末の慌ただしさに包まれているはずだ。 だが、ここ「第13量子干渉クラス」においては、季節感などという牧歌的な概念はとうに崩壊していた。
教室の窓の外には、見慣れた校庭の風景はない。 あるのは、極彩色のノイズと、渦巻く情報の濁流だけだ。 過去、現在、未来、そして無数の並行世界の残骸が、ミキサーにかけられたように混ざり合い、不気味なうねりを上げて教習所を飲み込もうとしていた。
ズズズ……ガガガッ……!
教室の壁に走った亀裂が、またひとつ広がる。 その裂け目から、第一次大戦中の複葉機が機首を突っ込ませ、プロペラを空回りさせているかと思えば、床からは未来都市の摩天楼がタケノコのように隆起し、天井を突き破ろうとしていた。
「教官ッ! 『3次元座標』の維持率、40%を切りました! このままじゃ教室(ここ)が情報の海に溶けてしまいます!」
銀色のスーツをまとったナナが、空中に展開したホログラムウィンドウを必死に操作しながら叫ぶ。彼女の額には脂汗が滲み、未来のテクノロジーをもってしても、この崩壊速度を食い止めることは不可能に近いことを物語っていた。
「うるせえ! 弱音を吐くな! 俺のクラスで勝手な退学(消滅)は許さんぞ!」
田中教官が、出席簿を盾にして仁王立ちしていた。 彼は、壁の亀裂から這い出そうとする「名状しがたい不定形の怪物(バグデータ)」を、気合一発、物理的な蹴りで押し戻していた。
「戻れ! ここは定員オーバーだ!」
田中の怒号が響くたび、崩れかけた壁がビクリと震え、一時的に修復される。 科学的にはありえない現象だ。だが、今のこの空間を支えているのは、間違いなくこの男の「石頭」と「理不尽な教育熱心さ」だけだった。
しかし――。
「……ハァ、ハァ……ッ」
田中の膝が、ガクンと折れた。 彼のジャージ姿が、テレビの受信不良のように激しく乱れる。 指先が透け、向こう側の景色が見えている。
「教官!」 シュレが駆け寄ろうとするが、足元の床が液状化していて動けない。
「……来るな。俺は大丈夫だ」
田中は強がって立ち上がろうとするが、その体にはもう、実体を保つだけの霊的エネルギーが残っていなかった。 世界の崩壊を一身に背負い、無理やり「学校」という形に固定し続けてきた代償。 彼は、摩耗しきっていたのだ。
***
教室の後方。 瓦礫の山で作られた即席のラボで、白衣の青年・カイは、血走った目でノートパソコンの画面を凝視していた。
ピピッ、ピピッ、ピピッ……
パソコンから、心電図のような警告音が規則正しく、しかし徐々に早くなりながら鳴り響いている。 それは、現世にあるカイの肉体――病院の集中治療室で昏睡状態にある彼自身の、バイタルデータだった。
「……タイムリミットだ」
カイは乾いた唇を舐めた。
「現世の肉体が限界を迎えている。脳死まで、あと推定2時間……。それまでに意識データを戻さなければ、僕は本当に『死人(幽霊)』になる」
「なら、急いで帰還ゲートを開いて!」 ナナが叫ぶ。 「カイがここからいなくなれば、時空の歪みも収まるはずよ! あなたという特異点さえなくなれば、教官だって助かるわ!」
「分かっている。……だが、足りないんだ」
カイは悔しげに拳をデスクに叩きつけた。
「計算上、このカオス空間から現世の座標へトンネルを掘るには、核融合炉並みのエネルギーが必要だ。 だが、見ての通りだ。この空間のエネルギーはエントロピーの増大によって拡散しきっている。……エンジンはあるのに、ガソリンが一滴もない状態なんだよ!」
絶望的な沈黙が流れる。 カイが帰らなければ、世界は崩壊し、田中も消滅する。 だが、帰るための力がない。 八方塞がりだ。
「……ワタシノ、力ヲ、使ッテ」
天井から、ガラが降りてきた。 その大きな瞳が、決意に満ちて光っている。
「ワタシハ、高次元ノ存在。質量ヲ、燃ヤセバ、エネルギーニ、ナル」 「ダメだガラ!」
カイが即座に否定した。
「君の質量をエネルギー変換すれば、君自身が消滅する。仲間を犠牲にして生き残るなんて、それは僕が否定した『逃避』と同じだ!」
「デモ……!」
「計算しろ、カイ! 科学者だろ!」
カイは自分自身に言い聞かせるように叫び、再びキーボードを叩き始めた。 数式が滝のように画面を流れる。 何かあるはずだ。誰も犠牲にせず、この閉じた系(システム)から脱出するための、起死回生の変数が。
その時。 カイの視界に、倒れ伏している田中教官の姿が入った。 透けかけた田中の体から、金色の粒子のような光が漏れ出している。
「……待てよ」
カイの手が止まった。 彼の脳内で、ある仮説が組み上がっていく。
「教官……あなたは、何者なんだ?」
カイは独り言のように呟いた。
「ただの浮遊霊が、これほどの崩壊に耐えられるはずがない。 時空を超えた存在たちを『生徒』として定義し、一つの教室に縛り付ける拘束力。 高次元の消去プログラムすら殴り返す、理不尽な出力。 ……あなたは、単なる『観測者』じゃない」
カイは黒板に走り、新しい数式を書き殴った。 田中の霊的質量をXとし、この空間の結合エネルギーをYとする。 計算結果は――『無限大(インフィニティ)』。
「……そうか。分かったぞ」
カイは戦慄し、そして狂気的な笑みを浮かべた。
「この教習所は、ただの場所じゃない。田中悟という巨大な霊的エネルギー体が作り出した、『固有結界』のようなものだったんだ」
「えっ……?」 シュレが目を丸くする。
「教官自身が、巨大なエネルギーの塊なんだ。 彼の『生徒を卒業させたい』という執念が、重力場となって僕たちを引き寄せ、この世界を形作っていた。 ……灯台下暗しだ。僕たちは、エネルギーの塊(ガソリン)の上で、ガス欠だと騒いでいただけだったんだ!」
カイは振り返り、全員に告げた。
「方法はある。……だが、これは賭けだ。成功確率は0.0001%にも満たない」
カイは黒板の中央に、一点を記した。
「『特異点(シンギュラリティ)突破作戦』。 教官を中心に、僕たち全員の霊力を直列に繋ぐ。 そして、教官が持つ『絶対観測』の力で、僕の意識データを弾丸として固定し、現世に向けて射出する」
「射出……って、人間大砲みたいなこと?」 ナナが顔をしかめる。
「その通りだ。ただし、火薬の量は桁違いだ。 失敗すれば、僕の意識は霧散し、君たちもエネルギーの逆流で消滅する。 教習所ごと、跡形もなく吹き飛ぶだろう」
カイは眼鏡を外し、仲間たちの顔を一人ひとり見た。
「……僕のエゴのために、君たちの命(魂)をチップとして賭けさせてほしい。 勝てば、僕は生き返り、君たちの世界も安定する。 負ければ、全員で虚無へダイブだ」
重苦しい沈黙。 リスクが高すぎる。合理的に考えれば、却下されるべき提案だ。
だが。
「……乗ったわ」
最初に手を挙げたのは、シュレだった。 彼女は、かつてノイズまみれだった自分の手を握りしめた。
「私、カイさんに助けられたから、今ここにいるの。 生きるか死ぬか選べなかった私に、第3の場所をくれた。……今度は私が、カイさんの背中を押す番だよ」
「……同意スル」 ガラが天井から降りてきた。 「トモダチ、助ケル。ソレガ、宇宙ノ、真理」
「仕方ないわね」 ナナがため息をつき、髪をかき上げた。 「未来の教科書には載っていない『非論理的解決法』だけど……歴史の修正力に抗うには、それくらいの馬鹿騒ぎが必要かもね」
全員の視線が、カイに集まる。 そして、床に倒れていた田中が、ふらりと立ち上がった。
「……へっ。面白いじゃねえか」
田中は口元の血(エクトプラズム)を拭った。 その体は限界に近いはずなのに、瞳だけはギラギラと燃えていた。
「俺を弾丸の発射台にするってか? 上等だ。 教官の仕事は、生徒を送り出すことだ。……たとえそれが、どこの世界であろうとな」
田中はカイの胸を拳で小突いた。
「準備しろ、カイ。 特進クラスの卒業試験だ。……派手にやるぞ」
カイは深く頷いた。 もはや、迷いはなかった。 科学者としての冷静な計算と、一人の人間としての熱い衝動が、彼の中で完全に融合していた。
「……了解。シークエンス、開始」
カイはパソコンを操作し、最後のプログラムを起動させた。 画面には、真っ赤な文字でこう表示されている。
『Target: Real World(現世) / Distance: ∞(無限大)』
崩壊が進む教室の中、5人の魂が一つに重なる。 それは、物理法則を超えた奇跡の方程式が完成する瞬間だった。
(第9話・完)