第7話:タイム・パラドックス ~完成した数式、押せないエンターキー~
十月。 ハロウィンで浮かれる街の喧騒を他所に、第13量子干渉クラスの教室は、静謐な空気に包まれていた。
黒板には、これ以上書き足す隙間がないほど、びっしりと数式が埋め尽くされている。 その中央。 カイが、最後のピースを埋めるように、チョークで一点を打った。
カツン。
乾いた音が響く。 カイはゆっくりと振り返り、手元のノートパソコンのエンターキーに指をかけた。
「……完成した」
その声は震えていた。
「過去への干渉ゲート、座標固定完了。……これを実行すれば、僕はあの日――レイナが事故に遭う5分前へ意識を飛ばせる」
教室にいた全員が息を飲む。 ついに、その時が来たのだ。 シュレが不安そうに見つめ、ガラがオロオロとし、田中教官が腕組みをして見守っている。
そして、窓際でナナが静かに端末を操作していた。
「……おめでとう、カイ。ついに執念が実ったわね」
ナナの声は穏やかだった。第4話のような敵意はない。 彼女はゆっくりとカイに歩み寄った。
「でも、実行する前に一つだけ確認させて。……その『レイナ』という女性。フルネームは『月島 レイナ』。誕生日は2000年5月12日。……間違いない?」
「ああ。なぜ知っている?」
ナナは寂しげに微笑み、空中に一枚のホログラム写真を表示させた。 それは、古い家族写真だった。 幸せそうに笑う夫婦と、その子供たち。 その写真の日付は、これから数年後の未来のものだ。
「……この男性、見覚えがあるでしょ?」
カイが目を見開く。 写真に写っている男性は、レイナの婚約者だった医師――『如月(きさらぎ) ゲン』だった。 しかし、その隣で笑っている妻は、レイナではなかった。別の女性だ。
「……どういうことだ」
「彼は、レイナさんを事故で失った悲しみを乗り越え、医療に貢献し、やがてこの女性と出会い、家庭を築くの。 ……そして、その血筋の末端にいるのが、私よ」
ナナは、残酷な真実を告げた。
「カイ。あなたが救おうとしているレイナさんは、私の『高祖父(ひいひいおじいちゃん)』の元・婚約者。 もしあなたが過去を変えて彼女を救えば、如月ゲンは彼女と結ばれる。……私の本当の高祖母となる女性とは出会わなくなる」
ナナは自分の胸に手を当てた。
「つまり……そのエンターキーを押せば、私の存在は『確率的に消滅』する」
***
教室が静まり返る。 殴り合いの喧嘩など起きない。ただ、重すぎる事実がのしかかる。
「……分岐だ」
カイが呻くように言った。
「パラレルワールドだ。僕が過去を変えても、君がいるこの世界(ルートA)が消えるわけじゃない。新たな世界(ルートB)が生まれるだけだ。君は消えない」
「ええ、そうね。多世界解釈ならそうなるわ」
ナナは認めた。だが、彼女は一歩踏み出し、カイの目の前に立った。
「でも、それはもっと残酷なことよ。 世界が分岐するということは、あなたは『ルートB』へ行き、私たちは『ルートA』に取り残されるということ」
ナナは、シュレ、ガラ、そして田中教官を指差した。
「あなたはレイナさんと幸せになるでしょう。でも、その世界には私たちがいない。 ここで過ごした半年間、一緒にUFOと戦った記憶、バカみたいに笑った日々……それら全てを捨てて、あなた一人だけが『理想郷』へ旅立つことになる」
ナナはカイの目を覗き込んだ。
「ねえ、カイ。……それは『救済』なの? それとも、仲間を見捨てる『逃避』なの?」
カイの指が、エンターキーの上で震える。 押せば、願いが叶う。 レイナが生きている世界に行ける。 だが、その代償は、「この教室の仲間たちとの永遠の決別」だ。
「……くそっ」
カイは歯を食いしばる。 第4話の時は、怒りに任せて戦うことができた。 だが今は違う。半年間、共に過ごした仲間への情が、ブレーキをかけている。
「……僕は……彼女を救うために……」
カイの声が掠れる。 押せない。 あと数ミリ指を押し込むだけでいいのに、指が鉛のように重い。
その時。 ズズズ……ッ 教室の空間が、不気味に歪み始めた。
「……おい、なんだ?」 田中教官が天井を見上げる。
カイのパソコン画面に、警告(アラート)が表示される。 『警告:観測者の意志分裂(アンビバレンス)により、因果律が不安定化』
「……いけない!」 ナナが叫ぶ。
「カイ! あなたの迷いが原因よ! 『過去に行きたい』という意志と、『ここを離れたくない』という無意識が衝突して、世界線が確定できなくなっている!」
カイという強力な観測者が、相反する二つの未来を同時に観測してしまった結果。 世界は「A」にも「B」にも進めず、その場で裂けようとしていた。
バリバリバリッ!!
教室の真ん中に、黒い亀裂が走った。 そこから、過去とも未来ともつかない、混沌とした「ノイズ」が溢れ出してくる。
「うわあああ! 恐竜が見えるよぉ!」 シュレが悲鳴を上げる。亀裂の向こうに、白亜紀のジャングルが見えたかと思えば、次は荒廃した未来都市が映る。
「パラドックスだ……! 僕の迷いが、時空そのものを引き裂いている……!」
カイはパソコンを閉じようとしたが、衝撃波で弾き飛ばされた。
「教官! みんな! 逃げろ!」
カイが叫ぶ。 だが、もう遅い。 亀裂は急速に拡大し、教習所全体を飲み込もうとしていた。
「……これが、エントロピーの増大……!」
選択を先送りにしたツケが、最悪の形で回ってきた。 世界は分岐するのではなく、「崩壊」を始めたのだ。
(第7話・完)