第6話:ラプラスの悪魔 ~変えられない結末~
九月。 あの「掃除屋」との激闘から一ヶ月。 校庭の木々が色づき始め、鰯雲(いわしぐも)が流れる空の下、第13量子干渉クラスは奇妙な停滞感に包まれていた。
教室の黒板は、チョークの粉ではなく、複雑な演算式の光で埋め尽くされている。
「……ダメだ。何度シミュレーションしても、収束してしまう」
カイが頭を抱え、デスク(空中に展開したホログラム)を叩いた。 彼が計算しているのは、シュレの「過去」だ。
「あの……カイさん。やっぱり、無理なんですか?」
シュレがおずおずと尋ねる。 彼女は前回の授業で「ここ(教習所)」に留まることを選んだが、やはり未練は消えていなかった。 『もし、あの日の朝、一本早い電車に乗っていたら、私は死なずに済んだのではないか?』 そのIF(もしも)を知りたがっていた。
「……見ろ。これが『ラプラスの悪魔』の答えだ」
カイが指を振るうと、空中に無数の分岐図(ツリー)が表示された。
ルートA:一本早い電車に乗る → 駅の階段で転落死。 ルートB:風邪をひいて休む → 自宅で火災に巻き込まれる。 ルートC:そもそも電車に乗らない → 通り魔に遭遇する。
どのルートを選んでも、時間や場所がずれるだけで、シュレの「死」という結末(イベント)だけは確定していた。
「そんな……。どうあがいても、私は死ぬ運命だったの?」
シュレが愕然とする。
「そうだ。歴史には『修正力』がある。川の流れを変えようとして小石を投げても、結局は大きな奔流に飲み込まれて同じ海に注ぐように……。 微細な変数の変更では、確定した未来(死)は覆せない」
カイの声は、冷徹だが、どこか悲痛な響きを帯びていた。
「この宇宙は、ビッグバンの瞬間に全ての原子の動きが決まっている。自由意志など幻想だ。僕たちは、数式通りに動く『あやつり人形』に過ぎないんだ」
***
教室の空気が重く沈む。 窓際で、ナナが静かに口を開いた。
「……彼の言う通りよ。未来の世界でも、それは『運命収束理論』として証明されているわ。 過去を変えようとすれば、世界はその歪みを修正するために、より大きな悲劇を生む。だからこそ、私たち時空管理局が監視しているの」
ナナはカイを見た。
「カイ。あなたも分かっているはずよ。あなたが恋人を救おうとして何万回シミュレーションしても、結果は同じだったでしょう?」
図星だった。 カイは唇を噛み締め、別のウィンドウを開いた。 そこには、彼の恋人・レイナが事故に遭う瞬間のデータが表示されていた。
「……ああ、そうだ。1400万605回」
カイが絞り出すように言った。
「僕はあらゆる可能性を計算した。信号を操作する、車をパンクさせる、天気雨を降らせる……。だが、どの変数をいじっても、彼女は死んだ。 ある時は事故で、ある時は病気で、ある時は僕の目の前で……!」
カイは激昂し、黒板の数式を拳で殴りつけた。
「クソッ! 科学は万能じゃなかったのか! 計算できても、変えられないなら意味がない! 僕はただ、観測することしかできない無力な『悪魔』なのか!」
天才科学者の慟哭。 それは、理屈で説明がつくからこそ、逃げ場のない絶望だった。 シュレが泣き崩れる。ガラが悲しげに明滅する。
その時。
バシィッ!!
乾いた音が響いた。 俺、田中悟が黒板消しを叩きつけ、カイの数式を消し去った音だ。
「……うるせえな、御託ばかり並べやがって」
俺は粉まみれの手でカイの肩を掴み、無理やりこっちを向かせた。
「教官……。何を……」 「計算、計算ってよ。お前の計算式には、一番大事なモンが入ってねえんだよ」
俺は自分の胸をドンと叩いた。
「『心』だ。……お前は、彼女が死ぬことの『事実』ばかり見てる。だがな、その時彼女が何を思っていたか、お前がどう愛していたか、その『想い』までは計算できてねえだろ!」
「感情論で物理現象は覆らない!」
「覆せなくていい! 受け止めるんだよ!」
俺は叫んだ。
「過去は変えられないかもしれん。死んだ事実は消えないかもしれん。 だがな、その結末に至るまでの『過程』や、その後に残された者たちの『生き方』は、お前の心一つでいくらでも変わるんだ!」
俺は泣いているシュレの方を向いた。
「シュレ! お前は死んだ。それは変えられない。 だが、お前が『不幸な死に方をした可哀想な子』になるか、『精一杯生きて、家族に愛された子』になるか……それは、今のお前が決めることだ!」
シュレが顔を上げる。
「過去を嘆くな。未来を計算するな。……『今』を生きろ。ここには、俺たちがいるだろ」
俺の言葉に、科学的な根拠は何もない。 だが、その熱量だけが、凍りついた教室の空気を溶かしていく。
「……ふっ」
カイが力なく笑い、膝から崩れ落ちた。
「……非論理的だ。あまりにも非効率で、前時代的な……」
カイは眼鏡を外し、涙を拭った。
「……だが、僕の計算機(ハート)は、あなたの言葉を『正解』だと処理しているようだ」
ナナが、ふと窓の外を見た。 夕焼けが、灰色の空を赤く染めている。 彼女の端末に表示されていた『カイの精神汚染率:危険』という数値が、急速に低下していた。
「……ラプラスの悪魔も、人間の『不合理な心』までは計算できなかったようね」
ナナは小さく微笑んだ。
カイは立ち上がり、真っ白になった黒板を見つめた。
「過去は変えられない。……だが、観測者の『視点』を変えることはできる、か」
彼はチョークを手に取った。 今度は、数式ではない。 ただ一言、こう書いた。
『変数X = 未来への意志』
「先生。……もう少しだけ、あなたの非科学的な授業を受けてやりますよ。 もしかしたら、その先に『計算外の奇跡』があるかもしれない」
秋風が吹き抜け、ページをめくる音がした。 運命という書物の、次の章が開かれた気がした。
(第6話・完)