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第2話:観測される怪異 ~トイレの花子さんとコペンハーゲン解釈~

第2話:観測される怪異 ~トイレの花子さんとコペンハーゲン解釈~

 五月。  本来なら新緑が眩しい季節だが、第13量子干渉クラスの窓ガラスには、灰色のノイズが走り続けている。  教室の空気は、大学の研究室のように乾燥し、張り詰めていた。

「……非効率極まりない」

 白衣の青年・カイが、冷たく言い放つ。  彼は黒板一面に、『ポルターガイスト現象におけるエネルギー保存則とエントロピー増大』という複雑怪奇な数式を書き連ねていた。

「教官。あなたの推奨する『脅かし』というメソッドは、エネルギーの無駄遣いだ。僕が計算したところ、人間を部屋から追い出したいなら、脳の扁桃体(恐怖を感じる部位)に直接、磁気刺激を与えて『不快感』を誘発すれば済む」

 カイはチョークを置いた。カツン、という硬い音が響く。

「物体を動かす、姿を見せる……そんなアナログな手法は、計算リソースの浪費に過ぎない。僕が必要としているのは、現世への帰還ゲートを開くための『高純度な干渉データ』だ。遊びに付き合っている時間はない」

「だから、それが味気ないって言ってるんだよ!」

 俺、田中悟は机をバンと叩いた。  入学から一ヶ月。カイは優秀だ。だが、彼のやり方には「心」がない。  クラスメートの未来人・ナナや、ノイズ少女・シュレも、カイの冷徹な理論に感化され、「感情論は古い」「効率こそ正義」という空気が教室を支配しつつある。

 このままでは、こいつらは「幽霊」ではなく、ただの「現象」になってしまう。

「分かった。そこまで言うなら、実証実験といこう」

 俺は奥の手を使うことにした。  デジタルな理論武装を、圧倒的な「経験」で粉砕できる唯一の存在。

「今日の特別講師を紹介する。……入ってくれ」

 ギィィィ……

 自動ドアのようにスムーズではなく、錆びついた蝶番が軋む音がして、教室の引き戸が開いた。  湿った空気と共に現れたのは、おかっぱ頭に赤い吊りスカートの少女。  昭和、平成、令和と語り継がれる怪談の女王、トイレの花子さんだ。

「……なんだ、このシケた空気は。線香の匂いもしないとはな」

 花子さんは教室を見渡し、カイの前で足を止めた。

「お前か? 『幽霊はバグだ』などとほざいている新入りは」 「事実だ。君もまた、古い都市伝説という名の『共有幻想』が生み出した、未確定な集団幻覚に過ぎない」

 カイが一歩も引かずに見下ろす。  花子さんは、口の端をニヤリと歪めた。

「面白い。なら、どちらのやり方が『生物として優れている』か、勝負といくか」

 ***

 実験フィールドは、深夜の廃校となった旧校舎のトイレ。  ターゲットは、肝試しに来た理系大学生の男。  彼はスマホ片手に、サーモグラフィーアプリを起動しながら歩いている、筋金入りの「否定派」だ。

「先攻は僕だ。……見ていてくれ」

 カイが前に出た。  彼は手元のタブレット(霊的な端末)でログ収集を開始した。

「重力制御、および局所的な気圧操作……実行。現世への干渉率、モニタリング開始」

 カイの計算通り、個室のドアが風もないのにカタカタと揺れ、周囲の気温が急激に3度下がった。  さらに、微弱な低周波を発生させ、人間の平衡感覚を狂わせる。  物理的には完璧な怪奇現象だ。ターゲットは確実に違和感を覚えるはずだ。

 しかし――。

「ん? 風か? 古い建物だから隙間風がひどいな」

 ターゲットは首をかしげ、スマホの画面を見た。  『異常なし』の表示を見て、彼は鼻で笑った。

「なんだ、気のせいか。帰ってレポート書こ」

 彼は恐怖を感じるどころか、「建物の老朽化」という合理的な結論を出して、興味を失ってしまった。  その瞬間。

「……っ!?」

 カイの体が、ビジッとノイズのように点滅した。  足元が透け、存在が希薄になる。手元のタブレットに『ERROR:存在維持不可』の文字が点滅する。

「な、なんだ……? 干渉データが取れない……体が、消える……?」 「警告したはずだぞ」

 背後から花子さんの声がした。

「奴はお前を『認識』しなかった。無視された情報は、ゴミ箱行きだ。……これがお前の言う『効率』の末路だ」

 カイは冷や汗を流しながら、必死に存在を保とうとする。  誰にも見られない恐怖。自分が「いないもの」として扱われる絶望感。

「どけ。……本物を見せてやる」

 花子さんが前に出た。  彼女は超能力など使わない。ただ、一番奥の個室に入り、静かに扉を閉めただけだ。

 そして、中から――  コン、コン……  ゆっくりと、湿った音でノックをした。

「……?」  帰りかけたターゲットが足を止める。  静寂。  ターゲットが「誰かいるのか?」と扉を凝視する。  その視線が、一点に集中する。

 その瞬間。  ギィィィ……  扉が、ほんの数センチだけ開いた。  その暗闇の隙間から、青白い顔と、真っ赤な手が、手招きをするように見えた。

「――あそぼ」

「う、うわあぁぁぁ!!」

 ターゲットは悲鳴を上げ、腰を抜かし、スマホを取り落として逃げ出した。  単純だが、強烈な一撃。  ターゲットの脳裏には、花子さんの姿が焼き付いて離れないだろう。

 その時。  花子さんの体が、以前よりもくっきりと、鮮やかに実体感を増したのを、カイは見た。  タブレットの数値が跳ね上がる。『干渉率:MAX』。

 ***

 「……納得がいかない」

 実験終了後。  カイは腕組みをして、花子さんを睨んだ。まだ指先が震えている。

「君がやったことは、単なる条件反射の誘発だ。物理的なエネルギー総量は、僕の方が圧倒的に上だったはずだ。なのに、なぜ僕が消えかけて、君が強化された?」

「エネルギー量の問題ではない。『視線』の問題だ」

 花子さんは、カイの胸倉を掴み(触れられないはずだが、確かに圧力を感じた)、顔を近づけた。

「お前は量子物理学者だろ? なら『シュレーディンガーの猫』を知っているな」 「……当然だ。箱の中の猫は、観測されるまで生と死が重なり合っている」

「そうだ。我々幽霊も同じだ」

 花子さんは、赤いスカートをひらりとさせた。

「我々は不安定なバグデータだ。誰にも認識されなければ、霧のように拡散し、やがて消滅する。  だが、人間が『怖い』と思い、目を凝らし、そこに『何かがいる』と強く信じた瞬間……我々の波動関数は収束し、この世界における存在が『確定』するのだ」

 カイの目が見開かれた。  電流が走ったような衝撃が彼を貫く。

「恐怖とは、ただの感情ではない。人間が放つ、最強の『観測エネルギー』だ。  奴らがビビればビビるほど、我々はこの世界に『実体』として錨(いかり)を下ろすことができる」

 花子さんはカイの胸を突いた。

「お前のやり方は、誰も見ていない森で木を倒すのと同じ。  物理的にどれだけ凄まじい現象を起こそうと、相手がそれを『怪異』として観測しなければ、それは起きていないも同然なのだよ」

 沈黙が流れる。  カイの脳内で、バラバラだったパズルのピースが、恐ろしいほどの精度で噛み合っていく音がした。

「……なるほど。恐怖による波動関数の強制収束(コラプス)……」

 カイは口元に手を当て、ブツブツと高速で呟き始めた。

「人間を高性能な観測装置(ディテクター)として利用し、自身の存在確率を0から1に固定する……。  そのためには、漫然とした視線ではダメだ。脳が処理しきれない『恐怖』という強い情動を伴う観測が必要になる……!」

 カイは顔を上げ、花子さんを見た。  その瞳から、侮蔑の色は完全に消えていた。あるのは、未知の理論に触れた科学者の興奮だけだ。

「……参ったよ。僕の計算式には、『人間の意識』という最も重要な変数が欠けていたようだ」

「フン。分かればいい」

 花子さんは満足げに鼻を鳴らし、壁の中へと吸い込まれるように消えていった。  去り際に一言、こう残して。

「理屈で語るのも悪くないが……たまには泥臭く脅かすのも楽しいぞ、新入り」

 残されたカイは、黒板に向かうと、これまでの数式を全部消し、新しい式を書き始めた。  そこには、$\psi$(波動関数)を収束させるための、$E_{fear}$(恐怖エネルギー)という新しいパラメーターが追加されていた。

「……面白い。オカルトとは、未解明の物理法則だったのか。  これなら、現世への帰還ルートも再計算できるかもしれない」

 カイは微かに笑った。  その笑顔は、初めて見せる年相応の少年のものだった。

 俺はほっと胸を撫で下ろした。  こいつ、めんどくさい性格だが、真理を認める素直さはあるらしい。  こうして、科学とオカルトが融合する、奇妙な授業が幕を開けたのだった。

(第2話・完)