第1話:シュレーディンガーの教室 ~死んでいない男~
四月。 現世においては、桜が満開を迎え、生命が謳歌する始まりの季節。 だが、ここ「彼岸」と「此岸」の狭間にある幽霊教習所には、色彩というものが欠落していた。
空は、テレビの砂嵐のような灰色。 校舎の窓ガラスは、外の景色を映さず、ただ冷たいデジタルノイズのような粒子を明滅させている。 かつての「湿っぽい幽霊学校」とは違う。今のこの場所は、まるで巨大なサーバー室のような、無機質で乾いた静寂に包まれていた。
「……第13量子干渉クラス、か」
俺、田中悟は、新しい出席簿(タブレット)を見つめて眉をひそめた。 今期のクラス名は、いつもの「第〇教場」といった呼び名ではない。上層部(閻魔庁)のシステムエラーか、それとも意図的なものか。 俺は意を決して、重たい鉄製の扉を開けた。
キィィィン……。 錆びついた蝶番の音ではなく、電子的な駆動音がして扉が開く。
教室には、4人の生徒がいた。 だが、その光景を見て、俺は足を踏み入れるのを躊躇した。 そこに広がっていたのは、俺が知る「幽霊」の教室ではなく、SF映画の実験室のような光景だったからだ。
「……チャイムが鳴ったぞ。席につけ」
俺が声をかけても、誰も反応しない。こちらの存在を認識していないかのようだ。
窓際で、空中に浮かぶ半透明のキーボードを高速で叩いている少女、ナナ。 銀色のボディスーツのような服を着ている。彼女の指先が動くたびに、空中に「ERROR」や「FIX」といった文字列が浮かんで消える。彼女は現在(ここ)にはいない。意識の大半を、別の時間軸へ飛ばしているようだ。
教室の隅で、体育座りをしている少女、シュレ。 彼女の姿は、まるで接触不良の映像のように激しく乱れていた。一瞬、制服姿に見えたかと思えば、次は病院着になり、その次は白骨死体のように見える。 「生きている状態」と「死んでいる状態」が高速で切り替わり続けているのだ。見ているだけで平衡感覚がおかしくなりそうだ。
天井を見上げて、ブツブツと理解不能な言語を呟いている小柄な人影、ガラ。 肌は灰色で、目が異常に大きい。手足の長さも比率がおかしい。 「……ココハ、座標ズレテル。修正、フカノウ……」 頭の中に直接響くような声だ。
そして、教壇の目の前。 白衣を羽織り、猛烈な勢いでノートパソコンのキーボードを叩いている青年、カイ。 彼は、他の生徒たちとは違い、圧倒的な「質量」を持っていた。 体が全く透けていない。足元にはくっきりとした影が落ち、パソコンの排熱ファンの音が聞こえる。 そして何より、生きた人間特有の「熱」と「苛立ち」を放っていた。
「……おい、そこの白衣」
俺が教鞭で机を叩くと、カイは手を止めずに答えた。
「静かにしてくれないか。今、ここの空間座標の演算をしている。……チッ、またエラーか。プランク定数が安定しない」 「計算? ここは学校だぞ。自己紹介くらいしたらどうだ」 「学校?」
カイは鼻で笑い、パソコンを閉じた。 バタン、という乾いた音が教室に響く。 彼はゆっくりと立ち上がり、俺を見下ろした。その瞳は、理知的だが、凍てつくような冷たさを宿していた。
「教官。あなたの認識は根本から間違っている」
カイは黒板に向き直り、猛烈な速度でチョークを走らせた。 カツカツカツカツ! 書かれたのは、自分の名前ではない。複雑怪奇な数式と、量子力学の図解だ。
「ここは学校などではない。……『量子の吹き溜まり(ガベージ・コレクション)』だ」
「は?」
「いいですか。あなたたち幽霊は、肉体というハードウェアを失った意識データだ。本来なら、クラウド――つまり宇宙のアカシックレコードにアップロードされ、統合されるはずのものだ」
カイは数式の一部を指差した。
「だが、何らかのシステム障害でアップロードに失敗し、ローカル環境(現世)にキャッシュとして残ってしまった。それが君たちの正体だ」
カイは俺を指差した。
「つまり、君たちは『未練を持った霊魂』などという情緒的な存在ではない。未確定な『波動関数』だ。観測されるまでは存在が確定しない、曖昧なエラーデータに過ぎない」
「な、何を言ってるんだ……。俺たちは幽霊だ。感情だってある」
「その『感情』とは何だ? 脳内物質の電気信号の残滓(ざんし)だろう? ドーパミンとセロトニンの分泌記録を再生しているだけだ。……科学的に説明がつかない現象など、この宇宙には存在しない」
教室の空気が凍りついた。 これまでの問題児たちとは違う。 彼は、ルールを破るのではなく、この世界の「在り方」そのものを否定しているのだ。
カイは自分の胸に手を当てた。ドクン、ドクン、という心臓の鼓動が聞こえるようだ。
「僕は君たちとは違う。死んでいない。実験中の事故で、肉体と精神の位相がズレて、ここに弾き出されただけだ。……だから、こんな非科学的な『お遊戯(授業)』に付き合うつもりはない」
「……異議あり」
その時、窓際のナナが口を開いた。 彼女の銀色のスーツが微かに発光する。
「あなたの理論は200年前の古典物理学ね。……あなたは『生きている』のではなく、『生と死の重ね合わせ』の状態にある。観測者がいなければ、あなたはいつでも消滅するわ」
「ほう。未来人か? 随分と進んだ解釈だな」 カイが不敵に笑う。
「……あ、あの……」 ノイズ少女・シュレがおずおずと手を挙げる。その手は点滅して消えかけている。 「私……死んでる世界線の私と、生きてる世界線の私が……混ざってて……気持ち悪いんです……吐きそう……」
「……ワレワレハ、カンリシャヲ、マッテイル。ココハ、キケンナ、領域」 ガラが天井に向かって交信する。
……なんだ、このクラスは。 SF映画から飛び出してきたような「特異点(シンギュラリティ)」ばかりだ。 俺の胃が、これまでとは違う種類の痛み――キリキリとした緊張感で悲鳴を上げた。
俺は大きく息を吸い込み、黒板の前に立ったカイと対峙した。
「……理屈は分からん。俺は科学者じゃないからな」
俺はカイの目を見据えた。
「だがな、カイ。お前がここを『バッファ』と呼ぼうが『エラー』と呼ぼうが構わん。だが、ここには絶対のルールがある。……『卒業(成仏)』しなければ、元の場所へは帰れないということだ」
カイの眉がピクリと動いた。
「元の場所……現世にか?」
「そうだ。お前の言う『位相のズレ』とやらを直したいなら、ここのカリキュラム――つまり『現世の人間への干渉(実習)』をクリアしろ。それが、こちらの世界からあちらの世界へアクセスする、唯一の『正規ルート』だ」
カイは腕組みをして、考え込んだ。 その瞳の中で、高速で計算が行われているのが分かる。
「……なるほど。一理ある」
カイが呟いた。
「僕の意識データが現世に戻れないのは、この空間と現世の間に『観測の壁』があるからだ。 君たちの言う『実習(脅かし)』とは、こちらの世界からあちらの世界へ物理的・精神的干渉を行うプロセス……。 つまり、実習を行えば、『境界線のデータ』が取れるということか」
「あ、ああ……まあ、そういうことだ(多分)」
カイはバッと顔を上げ、不敵な笑みを浮かべた。
「いいだろう。参加してやる」
「素直だな。心を入れ替えたか?」
「勘違いするなよ、教官」
カイは黒板の数式を指差した。
「僕は君たちのオカルトごっこに付き合うつもりはない。 僕が実習に参加するのは、『僕の科学的アプローチの方が、君たちの感情論より優れている』ことを証明するためだ」
カイは宣言した。
「恐怖? 呪い? そんな不確定なものに頼らずとも、物理法則の応用だけで人間を制御できることを実証してやる。 その実験データさえ集まれば、僕は自力で現世への帰還ルートを構築できるはずだ」
なるほど。 こいつにとって、これから始まる実習は「授業」ではなく、自分の理論を証明するための「実験」であり、現世に帰るための「データ収集」なのだ。
「……いいだろう。お手並み拝見といこうか」
俺は苦笑いした。 動機はどうあれ、まずは打席に立たせることが重要だ。 打席に立てば、嫌でも思い知るだろう。理屈だけでは通じない「何か」があることを。
カイは再びパソコンを開いた。 画面には、複雑なグラフと、一つのファイル名が表示されていた。
『Project: Time Leap / Return to the Past(過去への帰還)』
俺は背筋に冷たいものを感じた。 こいつは、ただの迷い子じゃない。 この世界の理(ことわり)を書き換えようとする、危険な「観測者」だ。
窓の外では、季節外れの雪が降り始めていた。 桜を凍らせる、冷たく無機質な雪。 それは、これから始まる物語が、涙や笑いでは解決できない、冷徹な物理法則との戦いになることを予感させた。
(第1話・完)