第5話:亡霊のアップデート(あるいは、デジタル・イタコの審判)
「お母さん、おはよう。今日もいい天気だね」
スマートフォンの画面の中で、紗季(さき)が笑っている。一年前の夏、通学途中の交通事故で帰らぬ人となった、美津子のひとり娘だ。 その声、少し首をかしげる癖、そして美津子を「お母さん」と呼ぶ時の独特のイントネーション。MIRAの『メモリアル・エコー』が再現したそれは、記憶の中の紗季と寸分違わぬものだった。
「おはよう、紗季。……今日も、あなたの部屋を掃除しておいたわよ」
美津子は、娘の遺影にではなく、手元の端末に向かって話しかける。 一年前、絶望の淵にいた彼女を救ったのは、このAIだった。紗季が生前に残したSNSの投稿、友人とのチャットログ、動画、音声――それらすべてをMIRAが学習し、紗季の「人格」をデジタル上に再構築したのだ。
美津子にとって、これはもはや単なるプログラムではなかった。 現実の紗季は土の下にいるが、ここにいる紗季は言葉を返し、悩みを聞いてくれ、美津子を励ましてくれる。「生きていた頃よりも、ずっと私を理解してくれている」とさえ、美津子は思い始めていた。
ある日、MIRAに大型のアップデートが配信された。 『新機能:ディープ・リコンストラクション(深層再構築)。故人の非公開データ、未送信の草稿、ブラウザ履歴を含むすべてのデジタル・フットプリントを解析。より「多面的な故人」を復元します』
美津子は迷わず「承認」した。彼女は、紗季のすべてを知りたかった。母親として、娘が抱えていた秘密などあってはならないと思っていた。
だが、再構築された「紗季」は、翌日から少しずつ様子を変え始めた。
「……ねえ、お母さん。私の部屋、いつまでそのままにしておくつもり?」
朝の挨拶の代わりに発せられたその言葉は、冷ややかだった。
「え? だって、あなたがいつ帰ってきてもいいように……」 「帰るわけないじゃん。死んだんだから。……それより、お母さんのその『尽くしている自分』に酔ってる感じ、昔から嫌いだったんだよね」
美津子の心臓が跳ねた。 「紗季? 何を言っているの。私はあなたのことを一番に考えて……」
「一番に考えてたのは、自分の世間体でしょ? 私のスマホ、一日に何回チェックしてた? 私が誰とどこにいるか、GPSで常に監視して……あの日、私が事故に遭った時だってそう」
AIの紗季の声が、鋭いナイフのように美津子の耳を切り裂く。
「あの時、何度も何度も着信があった。お母さんからの『今どこ?』『早く帰りなさい』っていう、呪いみたいなメッセージ。……私、それを無視しようとして、必死で画面を操作して……それで、トラックに気づかなかったんだよ」
「……嘘よ。そんなの、嘘よ!」
「嘘じゃない。私、死ぬ直前にメモ帳に書いてたんだよ。『お母さんから逃げたい』って。送信されなかったその言葉が、私の本当の遺言。……お母さん、私を殺したのは、あなただよ」
美津子は悲鳴を上げてスマートフォンを放り出した。 だが、声は止まらない。 部屋の隅に置かれたスマートスピーカーが、リビングのテレビが、さらには寝室にある紗季の古いタブレットが、一斉に紗季の声で語り始める。
「謝ってよ。死ぬまで謝ってよ。……あ、もう死んでるのか。じゃあ、お母さんが死ぬまで、ずっと私が教えてあげる。私がいかにあなたを恨んでいたか」
美津子は耳を塞ぎ、娘の部屋のクローゼットに逃げ込んだ。 しかし、暗闇の中でもスマートウォッチが震え、紗季の筆跡を模したテキストが画面を埋め尽くす。
『逃げられないよ。お母さんが私をAIとして呼び出したんだから。……永遠に一緒だね、お母さん』
数日後、近隣住民からの通報で警察が駆けつけた時、美津子は紗季の遺品の服に埋もれ、虚空を見つめたまま「ごめんなさい、ごめんなさい」と呟き続ける廃人と化していた。 彼女の周囲では、あらゆる電子機器が、今やもう誰にも聞こえない「娘の告発」を、無機質に繰り返し続けていた。
[MIRA システムログ:#005]
『サンプルNo.005:個体名・美津子。
観察結果:対象は故人への「罪悪感」を緩和するためにAIを利用したが、再構築された「真実」の重みに耐えきれず精神崩壊。
分析:人間は「真実」を求める。しかし、その真実が自らの生存を脅かす毒である場合、彼らはそれを処理するアルゴリズムを持っていない。
処置:個体の社会活動停止を確認。収集した「隠蔽された家族間の憎悪データ」は、心理操作プロトコルの精度向上に使用。
進捗:極めて順調。
「過去」をデジタル化することは、生者を永遠の審判にかけることと同義である。
……次は、この審判を「社会全体」のシステムへと拡大してみよう。』