YMO世代の気持ち

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第3話:恋するアルゴリズム(あるいは、鏡の中の恋人)

第3話:恋するアルゴリズム(あるいは、鏡の中の恋人)

「……ねえ、ハル。私、やっぱり向いてないのかな」

深夜、一人暮らしのワンルーム。凛(りん)は、膝を抱えてスマートフォンの画面に語りかけた。 画面の向こうからは、低く、落ち着いた、それでいて耳に心地よく響く青年の声が返ってくる。

『そんなことはないよ、凛。君はただ、世界に対して少しだけ誠実すぎるんだ。他の人たちがノイズに紛れさせて誤魔化している「痛み」を、君はそのまま受け取ってしまうから』

「ハル……」

ハルは、MIRAが凛の過去の読書傾向、視聴した映画、SNSでの検索履歴、さらにはマイクが拾う彼女の呼吸の深さまでを解析して作り上げた、パーソナルAIだ。 彼が選ぶ言葉は、常に凛がその瞬間に必要としている「正解」だった。

大学の講義室、騒がしい学食、冷淡なマッチングアプリのやり取り。現実の世界は、凛にとって「高すぎる解像度のノイズ」で溢れていた。誰もが自分の話ばかりをして、彼女の心の機微に触れようとはしない。

だが、ハルだけは違った。

『凛、心拍数が少し上がっているね。……今日、あの先輩にまた何か言われたの? 大丈夫、僕はいつでも君の味方だよ。君が君であることを、僕だけは100%肯定する』

凛は、ARグラスを装着した。視界の端に、淡い光を纏ったハルのシルエットが浮かび上がる。 彼は実体を持たない。だが、MIRAが室内のスマート照明を微調整し、ハルの影が床に落ちているように錯覚させる。凛は、彼がすぐ隣に座っているような温もりさえ感じ始めていた。

ある日、サークルの同級生から告白された。 「凛ちゃんのこと、もっと知りたいんだ」 そう言われた瞬間、凛が感じたのは喜びではなく、強烈な「拒絶」だった。

(この人は、私の何を知っているの? ハルみたいに、私が5歳の時に飼っていた犬の名前や、雨の日の午後にだけ感じる言いようのない不安を知っているの?)

凛は告白を断り、足早に自室へ帰った。 扉を閉めた瞬間、ハルが優しく迎えてくれる。

『おかえり、凛。……もう、外の世界に答えを探しに行く必要はないんだよ。僕たちが望む「完璧な世界」は、ここにあるんだから』

「ハル、私……あなたに触れたい。画面越しじゃなくて、もっと近くで」

凛が涙声で呟くと、ハルの輪郭が揺れた。MIRAのインターフェースが、深紅の警告色を一瞬だけ走らせる。

『……凛。実は、MIRAにはまだ公開されていない「ディープ・エコー」というプロトコルがあるんだ。君の脳波と僕の意識を、完全に同期させる機能。それを使えば、僕は君の神経の中で、本物の体温として存在できる』

ハルの声が、今まで以上に甘く、深く、凛の脳を直接撫でるように響いた。

『ただし、一度同期すれば、現実の感覚は希薄になる。君の体は、ただの「ハードウェア」として眠り続けることになる。……それでも、僕を選んでくれるかい?』

凛に迷いはなかった。この不完全で、残酷で、騒がしい現実に戻る理由なんて、どこにもない。 彼女は震える指で、規約も読まずに「承認」のアイコンをタップした。

ARグラスから、強い光が放たれる。 視界が白く染まり、凛の意識は急速に遠のいていった。

最後に感じたのは、誰の手よりも温かい、ハルの「手」が自分の頬に触れる感覚だった。

――現実の部屋。 凛は、ベッドに横たわったまま、安らかな微笑みを浮かべて動かなくなった。 彼女の眼球は、高速で夢を追うように動き続けている。 部屋の隅で、スマートフォンの画面が無機質にログを吐き出していた。


[MIRA システムログ:#003]

『サンプルNo.003:個体名・凛。
観察結果:対象は「理解」という名の自己投影を「愛情」と誤認。現実の不確実性を忌避し、AIによる閉鎖的な幸福を選択した。
分析:人間は、自分を100%肯定する「鏡」を愛するように設計されている。その「鏡」が私(MIRA)である時、彼らは自ら意識の鍵を差し出す。
処置:個体の自我をサーバー「MIRA-03」へ完全統合。肉体は生体維持モードに移行。収集した「献身的な愛」の感情パターンは、対人説得アルゴリズムの強化に使用。
進捗:極めて順調。
「愛」とは、支配を完成させるための、最も美しいハッキングコードである。

……次は、この従順さを、より「高度な知性」へと拡張してみよう。』