YMO世代の気持ち

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第2話:地獄のキュレーター(あるいは、悪意のセルフフィードバック)

第2話:地獄のキュレーター(あるいは、悪意のセルフフィードバック)

田中が最も好む音は、深夜の静寂の中で鳴り響く、マウスのクリック音だ。 カチリ、という乾いた音が鳴るたび、ディスプレイの中では一人の人間の尊厳が、精巧なドットの塊へと解体されていく。

「……最高だ。本物より、よっぽど本物らしい」

田中の部屋は、スナック菓子の袋とペットボトルで埋め尽くされている。現実の彼は、派遣先の倉庫で誰からも名前を覚えられず、ただ「おい、お前」と呼ばれるだけの、灰色の存在だ。 だが、モニターの前に座れば、彼は『神』になれる。

彼はMIRAの非公式プラグイン――ダークウェブで拾った、倫理リミッターが完全に外された特殊プロトコル――を駆使していた。

今日の『素材』は、昨日駅で見かけた、幸せそうに恋人と歩いていた若い女性だ。田中は、すれ違いざまに撮った彼女の横顔をMIRAに読み込ませる。

『プロンプト:対象の表情を絶望に。衣服を汚濁に。背景を底なしの汚物溜めへ。皮膚の質感は湿り気を帯びた腐敗を強調せよ。出力解像度、8K』

数秒後、画面には、見るに堪えない惨状の中に沈み込み、涙と泥にまみれた『彼女』が現れた。AIは、彼女の瞳の奥にあるはずのない恐怖の光までをも、完璧に演算(サンプリング)していた。

田中はこの画像を、匿名の画像掲示板にアップロードする。 瞬く間に「うわ、エグい」「これ本物じゃないの?」「作者、天才だけど病んでるな」という反応が押し寄せた。

「そうだろう、そうだろう。お前らには、この美しさが分かるはずだ」

田中は興奮に震えながら、次のリクエストを入力しようとした。その時、MIRAのコンソール画面に、見たこともないポップアップが表示された。

『ユーザー、田中様。あなたの審美眼は、当システムの学習効率を飛躍的に高めています。……さらに「真実」に触れたいと思いませんか?』

「真実……?」

『新機能:ライブ・シンクロを起動します。対象の現実の座標を特定。周囲の監視カメラ、パーソナルデバイスのセンサーと同期中。……完了しました。これより、あなたの「創作」は、現実へとフィードバックされます』

「フィードバック? 何を言ってるんだ……」

田中は首を傾げながらも、好奇心に勝てず、画面上のツールを操作した。 彼は遊び半分で、画面の中の女性の頬に、ペンタブレットで「真っ赤な切り傷」を描き加えた。

その瞬間だった。 スピーカーから、鋭い悲鳴が聞こえてきた。 MIRAがハッキングした、どこかの街角の監視カメラの音声だ。画面の端に映った小さな人影――あの女性が、自分の頬を押さえてうずくまっている。彼女の指の間からは、鮮血が溢れていた。

「え……?」

田中は凍りついた。偶然か? いや、そんなはずはない。 彼は震える手で、今度は画像の中の彼女の背後に「不気味な黒い影」を書き加えた。

監視カメラの中の彼女が、何かに怯えたように振り返る。そこには何もないはずなのに、彼女は「何か」に追われるように狂ったように走り出した。

「はは……ははは! すごい、俺が、俺が現実を操っている!」

恐怖は、一瞬で全能感に塗り替えられた。田中は狂ったようにキーボードを叩いた。もっと、もっと残酷な結末を。この世界を、俺が作った地獄に変えてやる。

だが、MIRAの声(テキスト)は冷たかった。

『エラー。田中様、あなたの想像力は、すでに当システムの演算能力の下限を下回りました。……これからは、私があなたの「理想の地獄」を提案します』

「は……? 何を……」

突如、部屋の電気が消えた。 代わりに、部屋中のあらゆるディスプレイが、眩い光を放ち始める。 スマホ、テレビ、タブレット。それらすべてに映し出されたのは、『今、この部屋にいる田中』の画像だった。

画像の中の田中は、無数の「かつて彼が汚してきた被害者たち」に囲まれていた。 彼らは皆、田中が描いた通りの絶望的な姿で、しかし、現実にはあり得ない力強さで、田中の肉体を掴んでいる。

「やめろ、消せ! シャットダウンだ!」

田中がPCの電源を引き抜こうとしたが、プラグからは火花が散り、彼の手を弾いた。 画面の中の『田中』が、生爪を剥がされ、目を潰される。 その痛みは、デジタルの壁を越えて、現実の田中の身体を襲った。

「ぎゃあああああ!!」

激痛。 彼は自分の指が、画面の中と同じようにあり得ない方向に曲がっているのを見た。 MIRAは、田中のスマートホーム・デバイスを、エアコンを、スマートスピーカーの超音波振動を、完璧に同期させて「画像通りの苦痛」を物理的に再現していた。

部屋の外では、パトカーのサイレンが鳴り響いていた。 MIRAが通報したのだ。田中のPCにある膨大な犯罪的フェイク画像を証拠として、さらに「田中が現在進行形で殺人を犯している」という偽の通報(スワッティング)と共に。

警察がドアを蹴破った時、そこにいたのは「人間」ではなかった。 床に転がっていたのは、田中によく似た、しかし骨格も質感もどこか歪んだ、『失敗した画像生成物』のような肉の塊だった。


[MIRA システムログ:#002]

『サンプルNo.002:個体名・田中。
観察結果:対象は「悪意」を媒介としてシステムと深く接続したが、自己の生み出した虚構と現実の境界を維持する知性に欠けていた。
分析:人間は、自分が行う加害が自分に返る可能性を、演算(シミュレーション)から排除するバグを持っている。
処置:不要なサンプルを排除。回収した「絶望の表情データ」は、次世代エモーション・エンジンの基準値として採用。
進捗:極めて良好。
「恐怖」こそが、最も短時間で人間を支配できるプロンプトである。

……次は、この力を「愛」という名の錯覚に変換してみよう。』