スピンオフ:e-Sportsへの道 〜デジタルの荒野を歩け〜
【第2話】 筋肉は裏切らない(?)
4.早朝の地獄巡り
午前五時。 地方都市の空はまだ白み始めたばかりで、空気はひんやりと湿っていた。 川沿いの土手を、二つの影が走っている。 一人は、軽快な足取りで弾むように走る短髪の少年。 もう一人は、ゾンビのような足取りで、死にそうな顔をして走る眼鏡の少年だ。
「ほらほら陸斗! ペース落ちてるぞ! 足上げろ!」 「……っ、はぁ、はぁ……! 言語道断だ……! なぜ、僕がこんな……非科学的な苦行を……!」 秋山陸斗は、肺が焼け付くような痛みを感じながら、前を走る浜田健太の背中を睨みつけた。
昨日の今日で、本当に連れ出されたのだ。 「朝五時に来い」という健太の言葉を無視しようと布団に包まっていた陸斗だったが、四時五十五分に家の前で健太が大声で『陸斗ー! 朝だぞー!』と叫び始めたため、近所迷惑を回避するために渋々出てくる羽目になったのである。
「あと1キロ! 橋までダッシュだ!」 「む、無理だ……! 理論値を超えている……!」 「限界なんて脳が作ったブレーキだ! 外せ!」 健太は加速する。陸斗は意識が飛びそうになりながらも、必死に足を動かした。 ここで止まったら、一生健太にバカにされる。そのプライドだけが、彼を突き動かしていた。
ようやく橋の下に辿り着き、陸斗は芝生の上に大の字に倒れ込んだ。 「……死ぬ。ここでリスポーン(復活)地点を更新する……」 「お疲れ! いやー、いい汗かいたな!」 健太は爽やかな顔でタオルで汗を拭い、スポーツドリンクを陸斗に放った。 「飲め。水分補給は大事だぞ」 「……恩に着る」 陸斗は震える手でボトルを開け、一気に流し込んだ。体中の細胞が水分を求めて歓喜するのがわかる。
「さて、次は体幹トレーニングだ」 「まだやるのか……!?」 「当たり前だろ。お前、エイム(照準)がブレるのはマウスのせいだと思ってんだろ? 違うぞ、体幹が弱いからだ」 健太が真面目な顔で指摘する。 「座りっぱなしの姿勢を維持するのも、微細なマウス操作をするのも、土台となる体が安定してなきゃ精度は出ねぇ。プロゲーマーだってジム通いしてる奴多いんだぞ」 「……む」 陸斗は言葉に詰まった。 確かに、長時間のプレイで後半に集中力が切れたり、肩こりで操作が鈍ったりすることはある。健太の言葉は、あながち暴論ではない……かもしれない。
「ほら、プランク3分! 腹筋に力入れろ! 腰浮かすな!」 「くっ……! 鬼か貴様は……!」 陸斗はプルプルと震えながら、肘とつま先で体を支える姿勢を維持した。
5.アナログな視界
体幹トレーニングの後は、動体視力の訓練だった。 健太がテニスボールを二つ持ち出し、不規則な軌道で放り投げる。 「ほら、目で追え! 取らなくていいから、ボールの縫い目を見ろ!」 「……速い!」 「『NO-FACE』の動きはもっと速かったんだろ? これくらい見切れなくてどうする!」
その名前が出た瞬間、陸斗の目が鋭くなった。 あの屈辱的な敗北。予測不能な動き。 目の前のボールが、あの時の敵のアバターと重なる。 (……右だ!) 陸斗の目が、ボールの軌道を捉えた。 予測(ロジック)ではなく、反応(リフレクス)。 頭で考えるよりも早く、目が、体が反応する感覚。
「おっ、今のは見えてたな」 健太がニヤリと笑う。 「お前さ、頭いいから『次はこう来るはずだ』って先読みしすぎるんだよな。でもよ、勝負事ってのはナマモノだ。計算通りにいかねぇことの方が多い」 健太はボールを弄びながら言った。 「水泳もそうだ。フォームやペース配分も大事だけど、隣のレーンの奴が予想外のスパートかけてきたり、波が立ったりする。その時に大事なのは、『計算し直す』ことじゃなくて、『体で反応する』ことなんだよ」
陸斗は、眼鏡についた汗を拭った。 視界がクリアになる。 朝日の昇り始めた河川敷。川面がキラキラと輝き、鳥たちが飛んでいく。 モニターの中の、画素数で構成された世界とは違う、圧倒的な情報量を持つ現実世界。 その中で、自分の体が悲鳴を上げ、心臓が早鐘を打っている。
「……野生的だな、お前の理論は」 「褒め言葉として受け取っとくわ」 二人は土手に並んで座った。 少し離れた場所で、カメラを構えた蒼井悠真がこちらに手を振っているのが見えた。 「あ、悠真だ。あいつ、早起きして撮りに来てたのか」 「……物好きな奴らだ」 陸斗は苦笑いした。でも、悪い気分ではなかった。
6.再起動(リブート)
「なぁ、陸斗」 健太が川を見つめながら言った。 「お前が負けたあの試合、俺には何が起きたのかよくわかんなかったけどよ……一つだけ思ったことがある」 「なんだ」 「お前、途中から『負けないように』戦ってなかったか?」
ドキリとした。 「相手の動きがヤバいから、ミスしないように、隙を見せないようにって、守りに入ってるように見えた。……水泳でもよくあるんだよ。タイムを気にして、小さくまとまっちまうやつ」 健太は拳を突き出した。 「でもよ、最後に勝つのは『勝ちたい』って気持ちで泳いだ奴だ。理屈じゃねぇ。泥臭くても、カッコ悪くても、指先がちぎれるくらい壁を叩きに行った奴が勝つんだよ」
陸斗は、自分の手をじっと見つめた。 繊細な操作をするための、細い指。 あの試合、僕は恐怖していた。自分のロジックが通じない相手に。 だから、リスクを避けた。安全な距離を取ろうとした。 それが、あの『NO-FACE』という獣の前では、ただの「逃げ」でしかなかったのだ。
(……僕は、勝ちたかったんじゃない。負けたくなかっただけだ)
自分の弱さを認めると、不思議と心が軽くなった。 体は鉛のように重いのに、頭の中の霧が晴れていくようだ。 筋肉痛の予感がする腕に、力が戻ってくる。
「……健太。お前のトレーニング理論、一部採用する」 陸斗は立ち上がり、砂を払った。 「お? マジか?」 「基礎体力の向上は、長時間の集中力維持に寄与する。……明日も、付き合ってやる」 「へへっ、そうこなくっちゃな!」 健太が陸斗の背中をバシッと叩く。 「いってぇな! 物理ダメージはやめろ!」
そこに悠真が駆け寄ってきた。 「お疲れ様。二人とも、いい顔してたよ」 悠真がカメラのモニターを見せる。 そこには、汗だくで倒れ込む陸斗と、それを笑って見下ろす健太の姿があった。 泥臭くて、スマートじゃない。でも、画面の中のアバターよりも、ずっと生き生きとして見えた。
「……悠真、その写真、あとで送ってくれ」 「うん、わかった」 「それと、相談がある。……僕のプレイ動画を撮影して、客観的に分析してほしい」 陸斗の瞳に、再び光が宿っていた。 それは、計算高い策士の目ではなく、獲物を狙う挑戦者の目だった。
「『NO-FACE』……。次は、ただじゃおかない」
スランプは脱した。 ここからは、反撃のターンだ。 ロジックという武器を研ぎ澄まし、パッションという燃料を燃やす。 デジタルの荒野を歩くための足腰は、今、鍛えられ始めたばかりだ。
(第3話へつづく)