スピンオフ:スマイルマートの夜想曲 〜渡る世間に福来たる〜
【第4話(最終回)】 旅立ちの朝、あるいは再出発
10.コンビニの看板娘(?)
翌朝。 スマイルマートの自動ドアが開くと、そこには見慣れない光景が広がっていた。 「い、いらっしゃいませぇ……」 レジカウンターの中に立っていたのは、派手なコートを脱ぎ捨て、店の制服である紺色のエプロンを身につけた良子だった。 化粧は薄めで、髪も後ろで一つに束ねている。昨日までのふてぶてしさは鳴りを潜め、どこか借りてきた猫のように背中を丸めていた。
「あれ? あの人……」 登校前にパンを買いに来た浜田健太が、目を丸くして立ち止まった。 「この間の、石川さんの妹さんだよね?」 隣にいた蒼井悠真も驚いている。 「……なに見てんのよ。買い物なら早くしなさい」 良子は少しバツが悪そうに顔を背けながら、それでもレジの操作をたどたどしく進めた。 「ピ、ピッ……合計、三百二十円になります」 「へぇー! 店員さんになったんすか! 似合ってますよ!」 健太が屈託なく笑うと、良子は一瞬呆気にとられ、それから小さく、本当に小さくだが、「……ありがと」と呟いた。
その日の昼下がり。 店の前を通りかかった「かぐらや」の女将・雅子が、ガラス越しに中の様子を見て、驚いて飛び込んできた。 「ちょっと泰介ちゃん! あれ、良子ちゃんじゃないの!?」 私は品出しの手を止めて苦笑した。 「ああ。働くって言い出してね。使い物になるかはわからないが」 「へぇ……。やるじゃない」 雅子はレジへ歩み寄り、商品をドンと置いた。 「これ、お願い」 「あ、雅子さん……」 良子は気まずそうに目を伏せた。先日、あんなに激しく罵り合った相手だ。 「……昨日は、すみませんでした。偉そうなこと言って」 良子が深々と頭を下げると、雅子はフンと鼻を鳴らして笑った。 「いいのよ。あんたが元気ならそれで。……似合ってるわよ、そのエプロン。昔のお母さんにそっくり」 「やめてよ。お母さんの方が美人だったわよ」 「口答えする元気があれば大丈夫ね。ほら、お釣り!」
商店街の噂話は、またたく間に更新された。 『石川さんとこの妹さん、改心したらしいわよ』 『意外と愛想がいいじゃないか』 客たちは、好奇心と温かい目で、不慣れな「新人店員」を見守るようになった。 良子は文句を言いながらも、トイレ掃除をし、揚げ物の油を変え、深夜の酔っ払いの相手をした。 その背中からは、憑き物が落ちたように、「生活」の匂いがし始めていた。
11.決断の時
それから二週間が経ったある日の夕方。 事務室の電話が鳴った。 「はい、スマイルマートです」 私が出ると、電話の主は低い男の声だった。良子の夫だ。 『……あいつ、良子はそちらにいますか?』 「ああ、いるよ。……話すか?」 『いえ。ただ……迎えに行きますと、伝えてください。今週末に』
私は電話を切り、バックヤードで休憩中の良子に伝えた。 「旦那からだ。週末、迎えに来るそうだ」 良子は持っていたお茶のペットボトルを握りしめ、しばらく黙っていた。 「……そう」 「どうする。帰りたくないなら、追い返すぞ」 私が言うと、良子は首を横に振った。 「ううん。……会うわ」 彼女は顔を上げた。その目には、以前のような「逃げ」の色はなかった。 「いつまでもここに居候してるわけにはいかないしね。それに……ちゃんと話をしたいの。喧嘩じゃなくて、これからのこと」 「そうか」 私は短く答えた。多くを語る必要はなかった。 彼女はもう、自分で答えを出している。
12.旅立ちの朝
週末の朝。 店の前の駐車場に、一台の車が停まった。 降りてきたのは、少し疲れた顔をした、真面目そうな男性だった。 良子はボストンバッグを持って、店の外に出た。 二人はしばらく何かを話し合っていたが、やがて男性が深々と頭を下げ、良子も小さく頷いたのが見えた。
「お兄ちゃん」 良子が戻ってきて、私に向き直った。 「お世話になりました。……私、帰るわ」 「ああ。旦那とは上手くやれそうか?」 「わかんない。でも、もう一度やり直してみる。私の料理の味が濃いなら、薄くすればいいだけだしね」 良子は自嘲気味に笑った。 「それに、もしダメだったら……またここがあるし」 「おいおい、勘弁してくれよ」 私が渋い顔をすると、良子はニカっと笑った。 「嘘よ。次はちゃんと、自分でなんとかする。……お兄ちゃんが守ってきたこの店を見て、私も自分の場所を守らなきゃって思ったから」
良子はバッグを持ち直し、背筋を伸ばした。 「ありがとう、お兄ちゃん。あのお茶漬けの味、忘れないわ」 「……ああ。いつでも帰ってこい。在庫の茶漬けくらいなら、また食わせてやる」 「ふふ、もう御免よ」
良子は車に乗り込み、助手席から手を振った。 車が走り出し、商店街の角を曲がって見えなくなるまで、私は見送った。 冬の風が吹いたが、それはもう、凍えるような寒さではなかった。春の匂いが混じっていた。
13.エピローグ
良子が去り、スマイルマートには元の静寂が戻った。 ……はずだったが。
「いらっしゃいませー!」 放課後の店内には、中学生たちの声が響いていた。 良子がいなくなった後も、悠真くんたちは変わらずここを「たまり場」として利用してくれている。 「石川さん、最近なんか顔色が良くなりましたね?」 レジで悠真くんが言った。 「そうかい? 厄介払いができたからかな」 「またまた。妹さんがいなくなって、寂しいんじゃないですか?」 図星を突かれて、私は苦笑いした。 「……まあね。人間ってのは面倒くさい生き物だが、一人で店番をするには、夜は長すぎるからな」
悠真くんは、首から下げたカメラを持ち上げた。 「石川さん、一枚撮らせてもらってもいいですか?」 「私を? 絵にならないよ」 「そんなことないです。この店は、僕たちの日常の一部ですから」 悠真くんはファインダーを覗いた。 私は、少し照れくさそうにエプロンの襟を正し、レジの前に立った。 「……はい、チーズ」
カシャッ。
シャッター音が、店内に優しく響いた。 写真の中の私は、どんな顔をしているだろうか。 たぶん、少しだけ「お兄ちゃん」の顔をしているかもしれない。
自動ドアが開く。 「いらっしゃいませ。スマイルマートへようこそ」 私は今日も、この街の灯台守として、通り過ぎる人々を迎える。 渡る世間は鬼ばかりかもしれないが、たまには福もやってくる。 温かい肉まんと、少しのお節介を用意して、私は次の客を待つのだ。
(完)