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【第3話】 兄の怒りと、深夜の茶漬け

スピンオフ:スマイルマートの夜想曲 〜渡る世間に福来たる〜

【第3話】 兄の怒りと、深夜の茶漬け

7.レジ裏の攻防

(独白:石川泰介)

 人間、追い詰められるとろくなことを考えないものだ。  雅子ちゃんとの大喧嘩から数日。良子は二階の部屋に引きこもり、食事の時以外は姿を見せなくなっていた。  商店街を歩けば「出戻りの妹さん、まだいるの?」という視線が刺さり、店の手伝いをしようにも、私の無言の圧力に耐えきれなくなったのだろう。  彼女のプライドはズタズタになり、そして逃走本能だけが肥大化していた。

 その日の夜。  私がバックヤードで商品の発注作業を終え、店内に戻ろうとした時のことだ。  レジの方から、ガチャガチャという不審な音が聞こえた。  客はいない。アルバイトの学生は、奥の冷蔵庫でドリンクの補充をしているはずだ。

 私は足音を忍ばせて、レジカウンターへと近づいた。  そこにいたのは、良子だった。  彼女は、レジのドロア(金銭箱)を無理やり開けようとしていたのだ。 「……くそっ、鍵どこよ……!」  焦った様子でキーボードを叩き、ガサゴソとカウンターの下を探っている。その手には、自分のボストンバッグが握りしめられていた。

「……何をしてるんだ」  私が声をかけると、良子は「ひっ!」と小さく悲鳴を上げ、飛び上がった。 「お、お兄ちゃん……! 起きてたの!?」 「今から深夜シフトだ。……その荷物はどうした」 「か、帰るのよ! 東京に!」  良子は開き直ったように叫んだ。 「もううんざり! 雅子さんには罵倒されるし、近所の人には白い目で見られるし! こんな狭苦しい街、一秒だっているもんんですか!」 「帰るのは勝手だが、レジに手を出したのはどういうつもりだ」 「お金がないのよ! 新幹線代くらい貸してくれたっていいじゃない! ここは親の店でしょう!? 私にだって権利はあるはずよ!」

 良子は私の胸を突き飛ばし、レジに手を伸ばした。 「どいてよ! 三万円でいいのよ! 東京に戻れば、友達に借りて返すから!」 「やめろ良子!」 「離して! 私は東京に帰るのよ! こんな惨めな思いをするために帰ってきたんじゃないわよ!」

 揉み合いになった。  彼女の爪が私の腕を引っ掻く。ボストンバッグが床に落ち、中から化粧品や着替えが散乱した。  それでも彼女は、浅ましいほどに金銭を求めて手を伸ばし続ける。  その姿を見た瞬間、私の頭の中で、何かがプツリと切れた。

 私は良子の腕を掴み、力任せに引き剥がした。  そして、腹の底から声を張り上げた。

「いい加減にしろッ!!」

 店内中に、怒声が響き渡った。  ドリンクを補充していたアルバイトの子が、驚いて顔を出すほどの大声だった。  良子は目を見開き、凍りついたように動きを止めた。  温厚な事なかれ主義の兄が、こんな大声を出すなんて思ってもいなかったのだろう。

8.兄の説教

「……座れ」  私は震える指で、レジ横のパイプ椅子を指差した。  良子はおずおずと、へたり込むように座った。  私は大きく息を吸い込み、乱れた呼吸を整えてから、静かに、しかし重く語り始めた。

「良子。お前は勘違いをしている」 「……勘違いって、なにが」 「ここは、親の店じゃない。俺の店だ」  私は床を指差した。 「親父とお袋が死んでから十年。この店を改装し、借金を返し、毎日毎日、朝も夜もここに立ち続けて、信用を守ってきたのは俺だ。お前が東京で『田舎は嫌だ』と言って自由に暮らしている間、俺はこの十坪の城を、歯を食いしばって守り抜いてきたんだ」

 良子は唇を噛んで俯いた。 「三万円? はした金だと思うか? この店で三万円の利益を出すのに、どれだけの肉まんを売り、どれだけの頭を下げなきゃならないか、お前にわかるか?」 「……わかんないわよ。私はコンビニ店員じゃないもの」 「わかろうともしない人間に、一円だって渡すわけにはいかない。それは、汗水流して働いている世間の人たちに対する裏切りだ」

 私は、散乱した良子の荷物を一つ一つ拾い上げながら続けた。 「お前は昔からそうだ。嫌なことがあるとすぐに逃げる。高校の時も、就職の時も、そして結婚も。……今回だってそうだ。旦那と向き合うのが怖くて、現実を見るのが嫌で、被害者ぶってここに逃げ込んできただけだろう」 「ち、違うわよ! 私は……!」 「違わない! お前は自分の人生の責任を、誰かに押し付けているだけだ!」

 私の言葉は、良子の痛いところを容赦なく抉(えぐ)った。 「東京が嫌なら帰ってくればいい。出戻りだろうが何だろうが、兄妹なんだから面倒は見る。……だがな!」  私は良子の目の前に立ち、その目を見据えた。 「ここで生きるなら、ここのルールに従え。客に頭を下げ、床を磨き、汗をかいて働け。雅子ちゃんに嫌味を言われても、近所の噂になっても、笑って耐えろ。それが『生きる』ってことだ。それができないなら……今すぐこの店から出て行け。金はやらん。歩いて東京へ帰れ!」

 長い沈黙が流れた。  冷蔵庫のモーター音だけが、ブーンと低く唸っている。  良子の肩が震え始めた。  そして、ポタポタと床に涙が落ちた。

「……お兄ちゃん……」  良子は顔を覆って泣き出した。 「そんなふうに……思ってたのね……。ごめんなさい……ごめんなさい……」  それは、芝居がかったヒロインの涙ではなかった。  自分の弱さと浅ましさを突きつけられ、それでも見捨てずにいてくれた兄の厳しさに触れた、一人の人間の悔恨の涙だった。

「……泰介さん」  いつの間にか、アルバイトの学生が心配そうに立っていた。 「すみません、休憩入ってもいいですか?」 「ああ、すまないね。……少し、店を閉めるよ」  私は表の看板の電気を消した。  今夜は、客の来ない夜想曲になりそうだ。

9.廃棄弁当の味

 深夜二時。  泣き疲れた良子は、目を赤く腫らしてパイプ椅子に座っていた。  私はバックヤードの隅にある電子レンジの音を聞きながら、湯を沸かしていた。

「……腹、減っただろ」  私が差し出したのは、どんぶりに入ったお茶漬けだった。  ただし、具は高級な鮭ではない。消費期限が切れて廃棄登録をしたばかりの、鮭おにぎりを崩したものだ。 「……これ」 「廃棄のおにぎりだ。茶漬けにすれば、まだ食える」  私は自分用のどんぶりにもお湯を注ぎ、永谷園のお茶漬けの素を振りかけた。  湯気と共に、海苔とあられの香ばしい匂いが立ち上る。

「食べなさい。東京じゃ、こんな貧乏くさい飯は食わなかっただろうけど」  良子はどんぶりを受け取ると、震える手で箸を持った。  そして、ズルズルと音を立てて一口食べた。 「…………」 「どうだ」 「……しょっぱい」  良子は鼻をすすった。 「しょっぱいわよ、お兄ちゃん……」 「売れ残りだからな。飯も少し硬くなってる」 「違うわよ……涙の味がするのよ……バカ……」

 良子はまた泣き出しそうになりながら、それでもお茶漬けをかき込んだ。  私も無言で食べた。  インスタントの出汁と、少しパサついたご飯。そしてコンビニおにぎり特有の塩気。  お世辞にも御馳走とは言えない。  けれど、温かかった。  十年ぶりに兄妹並んで食べる飯は、どんな高級料理よりも胃の腑に染み渡った。

「……私、働く」  どんぶりを空にした良子が、ポツリと言った。 「え?」 「ここで働かせて。レジでも掃除でもなんでもやる。……お兄ちゃんの言う通りよ。私、逃げてばっかりだった」  良子は顔を上げ、私を見た。その目には、来た時のような険のある光はなく、憑き物が落ちたような穏やかな色が宿っていた。 「雅子さんにも謝るわ。近所の人にも。……だから、もう少しだけ、ここにいさせて」

 私は、空になったどんぶりを置いた。 「……時給は最低賃金からだぞ」 「構わないわよ。実の妹を安く使うなんて、いい度胸ね」  良子が、少しだけ昔のような憎まれ口を叩いた。  私は苦笑して、立ち上がった。 「明日は六時起きだ。朝の品出しがある」 「げっ、早すぎでしょ……」 「文句を言うな。それが『生きる』ってことだ」

 事務室を出て、薄暗い店内を見渡す。  商品は整然と並び、冷蔵庫の明かりだけが静かに灯っている。  何も変わらない、いつもの景色。  けれど、空気は少しだけ澄んでいる気がした。

 明日の朝は、今日より寒くなりそうだ。  だが、一人で迎える朝よりは、マシかもしれない。  私はシャッターを下ろし、長い一日を終えた。

(第4話へつづく)