スピンオフ:スマイルマートの夜想曲 〜渡る世間に福来たる〜
【第2話】 広まる噂と、ご近所の包囲網
4.商店街の情報網
(独白:石川泰介)
田舎の商店街における情報の伝達速度は、光の速さを超えると言われている。 特に「不幸」や「スキャンダル」といった類のネタに関しては、5G回線も裸足で逃げ出すほどの高速通信網――通称「井戸端会議ネットワーク」が存在するのだ。
良子が帰ってきてから三日。 スマイルマートのカウンターには、妙な視線が突き刺さるようになっていた。 「あら、石川さん。……妹さん、戻ってらしたんですって?」 レジで牛乳を買う近所の奥さんが、探るような目で聞いてくる。 「ええ、まあ。ちょっと骨休めに」 私が曖昧に笑うと、奥さんは「あらそう」と言いつつ、その目は『夫婦喧嘩でしょ?』『出戻りね』と雄弁に語っていた。
原因は明らかだ。 良子が昼間から派手な格好で商店街をブラつき、あろうことか馴染みの八百屋で「東京のスーパーより野菜の鮮度が悪いわね」などと悪態をついたらしい。 さらに、私の留守中に店番をさせた(させられた)際には、客に対して「いらっしゃいませ」の一言もなく、スマホをいじりながら無言でレジを打ったという苦情まで届いていた。
『石川さんのところの妹さん、東京で借金作って逃げてきたらしいわよ』 『旦那さんに三行半突きつけられたんですって』 噂には尾ひれがつき、背びれがつき、今や良子は「商店街の鼻つまみ者」として完全にマークされていた。 私はレジに立ちながら、胃のあたりがキリキリと痛むのを感じていた。 平穏だった私の城が、音を立てて崩れていく。
そして、その「包囲網」の真打ちとも言える人物が、ついに動き出したのである。
5.お節介という名の嵐
その日の午後、自動ドアが勢いよく開いた。 「泰介ちゃん! いるの!?」 入ってきたのは、商店街の婦人部を取り仕切る実力者であり、飲食店「かぐらや」の女将、神楽坂雅子(かぐらざか・まさこ)だ。 私とは小・中学校の同級生であり、腐れ縁の幼馴染でもある。 「なんだ雅子ちゃん。血相変えて」 「とぼけないでよ! 良子ちゃんのことよ!」 雅子はレジカウンターにバンと両手をついた。 「あんた、いつまであの娘(こ)を甘やかしてるつもり? 商店街中で噂になってるわよ。『スマイルマートの接客態度が最悪だ』って!」 「……耳が痛いよ」 「耳が痛いじゃ済まないわよ! あんたのお父さんとお母さんが、どれだけ苦労してこの店と信用を守ってきたか、忘れたわけじゃないでしょ!」
正論だ。ぐうの音も出ない。 雅子はエプロンの紐を締め直すと、鼻息荒く言った。 「良子ちゃんはどこ? 二階?」 「ああ。寝てるんじゃないかな」 「真っ昼間から寝てる!? 冗談じゃないわよ。……ちょっと行ってくるわ」 「お、おい雅子ちゃん! やめたほうが……」 止める間もなく、雅子はバックヤードへの扉を開け、ズカズカと階段を登っていってしまった。 私は頭を抱えた。 混ぜるな危険。この二人が出会えば、化学反応どころか核爆発が起きる。
数分後。 二階からドタドタという足音と共に、二人が降りてきた。 「ちょっと! 勝手に入ってこないでよ! 不法侵入よ!」 寝起きで髪を振り乱した良子が喚いている。 「あんたがいつまでも起きてこないからでしょうが! いい加減にしなさい良子ちゃん!」 雅子が良子の腕を引っ張って、狭い事務室に連れ込んだ。 私も慌てて後を追う。
「何なのよ雅子さん! 昔からそう! 偉そうに指図して!」 良子がパイプ椅子を蹴飛ばす勢いで座る。 「偉そうにしてるのはどっちよ! 泰介ちゃんに迷惑かけて、恥ずかしくないの!?」 「迷惑? 実の兄妹よ? 助け合うのが当たり前でしょ!」 「助け合う? 一方的に寄生してるだけじゃない! 三十過ぎて、自分の食い扶持も稼がずに、昼間からゴロゴロして……親が生きてたら泣いてるわよ!」
ここから先は、まさに橋田壽賀子ドラマの名シーンさながらの、息つく暇もない長台詞の応酬となった。
「親の話を出さないでよ! お母さんはね、私に『東京で幸せになりなさい』って言ってくれたのよ! この街に縛り付けられて、コンビニのレジ打ちで一生を終えるような人生、私は真っ平ごめんなのよ!」 「職業に貴賤はないわよ! 泰介ちゃんがどれだけ真面目に働いてると思ってるの! あんたが東京で遊び惚けてる間、親の介護をして、店を改装して、この場所を守ってきたのは誰よ!」 「遊び惚けてたわけじゃないわよ! 私だって必死だったのよ! 知らない土地で、冷たい姑に仕えて、夫の顔色伺って……! 雅子さんに私の苦しみの何がわかるのよ! 田舎でのうのうと飲食店やってるだけのくせに!」 「なんですってぇ!? こっちだって楽してるわけじゃないわよ! 亭主の夢に付き合って、借金して、粉まみれになって店切り盛りしてるのよ! 苦労の種類が違うだけで、みんな歯食いしばって生きてるのよ!」
言葉の弾丸が飛び交う。 過去の因縁、現在の不満、そして互いへの嫉妬と軽蔑。 私は二人の間に割って入ることもできず、ただオロオロと、沸騰したヤカンのような二人を見守るしかなかった。 女同士の戦いには、男が介入する余地など一ミリもないのだ。
6.中学生たちの目撃
その時だった。 店舗の方から、入店チャイムの音が聞こえた。 ウィーン。 「……いらっしゃいませー」 レジを任せていたアルバイトの学生の、気まずそうな声が聞こえる。 私はハッとして、事務室のドアを少しだけ開けた。
そこにいたのは、学校帰りの中学生たちだった。 神楽坂葵(雅子の娘だ)と、蒼井悠真、そして浜田健太。 彼らは一様に、強張った顔で事務室の方を見ていた。 この薄いドア一枚隔てた向こうで繰り広げられている怒号は、当然、彼らの耳にも届いていたのだ。
「……お母さん?」 葵が、不安そうに呟いた。 「なんか、すげー声聞こえるんだけど……」 健太が目を白黒させている。 悠真は、気まずそうに視線を泳がせていた。
私は覚悟を決めて、事務室から出た。 背後でドアを閉め、中の音を遮断する(完全には無理だが)。 「……いらっしゃい。悪いな、取り込み中で」 私は精一杯の平静を装って言った。 「石川さん、あの……うちのお母さんが、迷惑かけてますか?」 葵が心配そうに私を見上げる。その目には、「大人の事情」に対する戸惑いと、申し訳なさが滲んでいた。 「いや、迷惑なんてことないよ。雅子ちゃんは……僕の代わりに、言いにくいことを言ってくれてるだけだ」 私は苦笑した。 「良子……妹とな、ちょっと意見が食い違っててね。大人の話し合いってやつだ」 「話し合いっていうか……喧嘩ですよね」 悠真が冷静に指摘する。 「まあ、そうだな。……家族っていうのは、近すぎると時々、こうなってしまうんだよ」
事務室からは、まだ微かに「あんたなんか帰ればいいじゃない!」「帰るところがないから居るんでしょうが!」という怒声が漏れてくる。 中学生たちは、何も言えずに立ち尽くしていた。 いつも温厚な石川さん。いつも明るい「かぐらや」のおばちゃん。 そんな大人たちが、顔を真っ赤にして罵り合っている姿(声だけだが)は、彼らにとって衝撃だったに違いない。 大人の世界は、彼らが思っているほど綺麗でも、理性的でもないのだ。
「……今日は、買い物はいいから。帰りなさい」 私は彼らの背中を押した。 「葵ちゃん、雅子ちゃんには僕から言っておくから。夕飯の仕込みまでには帰すよ」 「……はい。すみません、石川さん」 葵は深々と頭を下げた。 悠真と健太も、「お邪魔しました」と小さく言って、店を出て行った。
自動ドアが閉まり、彼らの姿が見えなくなると、私はドッと疲れが出た。 子供たちに、一番見せたくないものを見せてしまった。 地域の「灯台守」であるはずのコンビニが、今や嵐の中心地になってしまっている。
私は再び、事務室のドアに手をかけた。 中ではまだ、第二ラウンドが続いているようだ。 「だいたいあんたは昔からそうなのよ! プライドばっかり高くて!」 「お兄ちゃんに言いつけてやる! 雅子さんがいじめたって!」
やれやれ。 夜想曲(ノクターン)どころか、これはデスメタルだ。 私は大きく息を吸い込み、修羅場へと戻っていった。 今日中に、この嵐を鎮めることができるのだろうか。 棚の商品よりも、私の寿命の方が先に在庫切れになりそうだった。
(第3話へつづく)