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スピンオフ:藤沢琴音の秘密のレッスン 〜指先とホイールの旋律〜

スピンオフ:藤沢琴音の秘密のレッスン 〜指先とホイールの旋律〜

 六月の湿った空気が、肌にまとわりつくような午後のことだった。  学校から帰宅した藤沢琴音は、まとわりつく制服のブラウスを脱ぎ捨て、薄手のキャミソール一枚になると、自室のベッドに力なく倒れ込んだ。  じわり、と汗が滲む。  熱を帯びた身体が、何かを求めて疼いていた。

「……足りない」

 琴音は漏れ出る吐息と共に呟いた。  学校での「優等生」としての時間は終わった。今はただ、渇きを癒やしたい。もっと深く、激しく、奥底まで震わせてくれる何かが欲しい。  彼女は震える手で、サイドテーブルに置かれたヘッドホンを手に取り、耳を塞いだ。  再生ボタンを押す。  選んだのは、坂本龍一のライブ盤。曲は、シンセサイザーが唸りを上げる『Thousand Knives』だ。

 音が、鼓膜を突き破って侵入してくる。  琴音は目を閉じ、想像の翼を広げた。  暗闇の中に浮かび上がる、教授の姿。そして、その手元にある、鈍く光る黒い筐体。  名機、Prophet-5(プロフェット・ファイブ)。  その左端にある、円盤状のコントローラー――ピッチ・ホイールだ。

(……ああ、来る)

 琴音の脳裏で、教授の右手が鍵盤の上を這い回り、そして左手が、あのホイールへと伸びる映像が鮮明に再生される。  彼女は無意識のうちに、自分の左手を宙に伸ばし、そこに存在しないホイールの縁(ふち)に、親指を添えた。

 ひんやりとしたプラスチックの感触。  そこに刻まれた滑り止めの溝を、親指の腹でじっくりと確かめる。  優しく、けれど確実に。  琴音は、その円盤に指を沈み込ませ、ゆっくりと、奥へ向かって押し上げた。

「……んっ」

 ヘッドホンから流れるシンセサイザーの音が、キュイィィィン……と、悲鳴のような、あるいは歓喜のような声を上げて昂(たか)ぶる。  親指に力を込め、ホイールを限界まで奥へと転がせば、音は天を衝くような高音へと達し、絶頂を迎える。  今度は、力を緩めず、粘りつくように手前へと引き戻す。  地の底を這うような低音へと堕ちていく音程(ピッチ)。  そのすべてを、たった一本の親指が支配している。

(もっと……もっと激しく擦って……)

 琴音の親指が、虚空で小刻みに震える。  ホイールのバネの抵抗を感じながら、微細な振動を与える。  繊細に、時に乱暴に。親指の腹で円盤を激しく擦り上げることで、音は波打ち、粘り気を帯びて、聴く者の三半規管を甘く溶かしていく。  教授の指使いは、いやらしいほどに巧みだ。  ただ音階をなぞるだけではない。音と音の間にある「隙間」を、このホイール操作でねっとりと繋いでいく。音が途切れることを許さず、どこまでも滑らかに、官能的な曲線(ポルタメント)を描いていく。

 琴音の呼吸が荒くなる。  汗ばんだ首筋に、髪が張り付く。  彼女は想像の中で、自らもまた、そのホイールを弄(もてあそ)んでいた。  溝に食い込む指の感触。  限界まで張り詰めたテンションを一気に開放し、バネの力で定位置に戻る瞬間の解放感。  そしてまたすぐに、指を這わせ、締め上げる。  その緩急。その摩擦。

「……あっ、すごい……」

 曲がクライマックスに達する。  速弾きの連打。  右手が鍵盤を激しく叩きつける一方で、左手の親指はホイールから離れない。  執拗に、どこまでも執拗に、上下に転がし、音を歪ませ続ける。  正常な音程なんていらない。理屈も秩序もいらない。ただ、本能のままに揺さぶられ、震わされ、音の渦の中に飲み込まれていく快感だけがあればいい。

 琴音の身体が、ビクンと跳ねた。  音が止んだ。  残響(ディレイ)だけが、頭の中で甘く木霊している。

 彼女はヘッドホンを外し、荒い息を整えた。  顔は上気し、瞳は潤んでいる。眼鏡のレンズが、自身の体温と湿気で白く曇っていた。 「……はぁ、はぁ……」  喉が渇いた。  彼女はベッドから起き上がり、鏡を見た。  そこに映っていたのは、髪を振り乱し、頬を紅潮させ、何事かを終えた後のような艶めかしい自分の姿だった。

「……ふふ。やっぱり、Prophetのホイール操作は最高ね」

 琴音は眼鏡を外し、指先についた汗を拭った。  あのアナログシンセサイザー特有の、不安定で太い音色。そして、それを親指一本で操るホイールというインターフェース。  スティックを握るのとも、ピアノを叩くのとも違う、指の腹で音を「撫で回す」ようなあの感触を想像するだけで、彼女の音楽的感性は極限まで刺激されるのだ。

「次は……ピアノの『タッチ』でイこうかしら」

 彼女は新しい曲を選んだ。  今度は、静謐なピアノソロだ。  鍵盤への指の入り方。重力の預け方。離鍵(りけん)の瞬間の、指の腹が鍵盤を撫でる刹那の摩擦音。  それらを骨の髄まで味わい尽くすため、琴音は再びベッドに身を沈めた。

 誰にも見せられない、秘密の時間。  真面目な委員長の仮面の下には、音の快楽に溺れる、貪欲な獣が棲んでいる。  その内なる熱こそが、彼女の無自覚な色気の正体であることを、本人はまだ知らない。

「……さあ、聴かせて。あなたの音を」

 部屋には再び、甘美な旋律と、微かな吐息だけが満ちていった。

(完)