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【第3回】 エスカルゴ・ショックと浪花の師匠

スピンオフ:かぐらや繁盛記 〜鉄板は熱いうちに打て〜

【第3回】 エスカルゴ・ショックと浪花の師匠

6.蘇る野望

 ラーメンの大ヒットから数ヶ月。  「かぐらや」は、昼はハンバーグと定食、夜は鉄板焼きとラーメンという、二毛作ならぬ「多毛作」スタイルで、すっかり街の人気店として定着していた。  厨房の父・信一の顔つきも、オープン当初の悲壮感は消え、自信に満ちた料理人の顔に戻っていた。

 しかし、私は甘く見ていたのだ。  父という人間が持つ、不屈の(そして少しズレた)情熱を。

 ある晴れた日曜日の朝。  開店準備をしていると、父が厨房の奥から、埃を被った重たい木箱を引っ張り出してきた。  そう、あの「エスカルゴ・プレート」だ。 「……お父さん? それ、どうするの?」  私が嫌な予感を抱きながら尋ねると、父は不敵な笑みを浮かべてプレートを磨き始めた。 「葵。今こそ、時が来たんだ」 「時って?」 「この数ヶ月、俺のラーメンを食べたことで、この街の人々の舌は確実に肥えた。今の彼らなら……きっと理解できるはずだ。本物のフランスの味を!」

 父は本気だった。  ラーメンでの成功体験が、父の中で変な化学反応を起こし、「俺なら何でも受け入れさせられる」という謎の全能感を与えてしまっていたのだ。 「今日のランチタイム、このプレートを解禁する。限定十食、『エスカルゴ・ア・ラ・ブルギニョン』だ!」

 母さんはレジで伝票を整理しながら、深く、深くため息をついた。 「……もう、好きになさい。材料費の無駄になったら、今月のお小遣いから引くからね」 「ふっ、見ていろ雅子。完売間違いなしだ」

7.残酷な天使のテーゼ

 そして迎えたランチタイム。  日曜ということもあり、店は家族連れで賑わっていた。  父は、店の中央にある一番目立つテーブル席の鉄板をガコッと外し、うやうやしく鋳鉄製の穴あきプレートをセットした。  その異様な存在感に、お客さんたちの視線が集まる。 「おっ、マスター。なんだいその道具は? 新メニューか?」  常連のおじさんが尋ねる。 「ええ、その通りです。これぞ、私が長年温めてきた……」

 父が口上を述べようとした、その時だった。  カランコロン。  ドアが開き、サッカーボールを持った小学生の男の子たちが、ドヤドヤと入ってきた。  まだ小さかった頃の、浜田健太と、蒼井悠真、そして秋山陸斗だ。 「おばちゃーん! 水ちょうだい! 喉乾いたー!」 「はいはい、いらっしゃい」  母さんが水を持っていく。  水を一気に飲み干した健太が、ふと、父の前のテーブルを見た。  そして、その目が点になり、次の瞬間、キラキラと輝き出した。

「うおぉぉぉぉっ!! すっげぇ!!」  健太の大声が店内に響き渡る。 「どうした健太?」 「見ろよ悠真、陸斗! あれ!」  健太が指差したのは、父ご自慢のエスカルゴ・プレートだ。 「あれ……たこ焼き器じゃん!!」

 その一言は、父の心臓を正確に射抜いた。 「え……?」 「すげぇ! 業務用のデカいやつだ! おじちゃん、ここ、たこ焼き屋さんになるの!?」  悠真も目を丸くしている。 「理論上、あの窪みの径は40mm。標準的なたこ焼きサイズと合致する」  陸斗が冷静に分析する。

 店内の空気が一変した。 「へぇ、たこ焼きか! それはいい!」 「ビールに合うだろうなぁ!」 「マスター、俺もたこ焼き食いたい!」  大人たちまでが乗り気になり始めた。この辺りには、焼きたてのたこ焼きを食べさせる店がなかったのだ。

「い、いや、違うんだボウズたち……。これは、エスカルゴという、フランスの……」  父が引きつった笑顔で訂正しようとするが、子供たちのテンションは止まらない。 「たっこ焼き! たっこ焼き!」  健太が手拍子を始めると、店中の子供たちが合唱を始めた。  その無邪気で残酷なコールは、父のささやかな夢を粉々に打ち砕いていく。

 母さんが、レジから父に目配せを送った。  その目は笑っていなかった。  『……わかってるわよね? お客さんが何を求めてるか』  それは、経営者としての、絶対零度の命令だった。

 父はガクリと項垂れ、そして震える手で冷蔵庫を開けた。  そこには、昨日の晩酌の残りの、刺身用のタコがあった。 「……ウィ(Oui)。マドモアゼル」  父は誰にともなく呟き、ボウルを取り出した。 「これは……フランス風の、タコ・ボールだ」

8.バターとフォークの迷走

 しかし、ここからが本当の地獄の始まりだった。  父・信一は、フレンチやイタリアンの技法には精通しているが、「たこ焼き」を焼いた経験は、人生でただの一度もなかったのだ。  しかも、捨てきれない洋食屋のプライドが邪魔をする。

「……生地には隠し味に白ワインとブイヨンを。そして、油ではなく、焦がしバターの風味を効かせる!」  父は、小麦粉を溶いた液体に、ありったけの洋風知識をぶち込んだ。  そして、熱したプレートに、バターの塊を放り込む。  ジュワァァァッ!  濃厚なバターの香りが店内に充満する。それはそれで良い匂いなのだが、たこ焼きの香りとしては違和感しかない。

「いくぞ……!」  父は生地を流し込み、カットしたタコを入れた。  ここまでは良かった。問題は「返し」だ。  父が手にしたのは、千枚通し(ピック)ではなく、なんとステーキ用のフォークだった。 「料理人は、道具を選ばない……!」  父はフォークで生地をひっくり返そうとした。  だが。 「……くっ、くっついている!?」  バターの糖分と、ワインの成分が焦げ付き、生地がプレートにこびりついて離れない。  しかも、温度が高すぎて外側は黒焦げ、中はドロドロの生焼けだ。 「なぜだ! なぜ丸まらない! ベシャメルソースの粘度が足りないのか!?」  父がフォークで必死にかき回せば回すほど、それは「たこ焼き」とは程遠い、無惨なスクランブルエッグ状の何かへと変わっていく。

「えー、おじちゃん下手くそー」  健太が容赦ないブーイングを浴びせる。 「見てられないな」  陸斗がため息をつく。  父の額から、大量の冷や汗が噴き出した。  絶体絶命。料理人人生最大のピンチ。

 その時だった。  カウンターの端で、生ビールを飲んでいたヒョウ柄のシャツを着たおばちゃんが、ドン!! とジョッキをテーブルに叩きつけた。  近所に住む常連、豊子(とよこ)さんだ。コテコテの大阪人で、普段はニコニコしているが、味にはめっぽううるさい。

「あかーーん!!」

 店内に怒号が響き渡った。  豊子さんは席を立ち、ツカツカと父の元へ歩み寄ると、父の手からフォークを引ったくった。 「見てられへんわ! なにタコいじめとんねん! タコが泣いとるで!!」 「と、豊子さん!?」 「どきなはれ! うちが手本見せたる!」

9.浪花の師匠、降臨

 そこからは、豊子さんの独壇場だった。  彼女はハンドバッグから、なぜか常備している「マイ千枚通し」を取り出した。グリップが赤く輝く、使い込まれた逸品だ。 「葵ちゃん! 鉄板の温度下げて! お母ちゃん、新しい生地と油持ってきて!」 「は、はい!」  私たちは豊子さんの気迫に押され、言われるがままに動いた。

 豊子さんは、焦げ付いたプレートを手際よく掃除し、たっぷりの油を引いた。 「ええかマスター! よう見ときや!」  彼女は新しい生地を並々と注ぎ込むと、腕組みをして仁王立ちになった。 「……焼かないんですか?」  父がおそるおそる聞く。 「まだや! たこ焼きはな、焼くんちゃう、『育てる』んや!」 「そ、育てる……!?」 「油は親の仇やと思って引くんや! ほんで、外側が固まってくるまで、じっくり待つ! 触りすぎたらあかん!」

 そして、絶妙なタイミングで、豊子さんの右手が動いた。  カカカカッ!  目にも止まらぬ速さで、千枚通しが生地を切り、手首のスナップで九十度だけ回転させる。  決して無理やりではない。生地が自ら転がりたがっているかのような、魔法のハンドリング。  さらに生地を継ぎ足し、完全に丸め込んでいく。 「これが『浪花の返し』や!」  無惨だった鉄板の上には、見る見るうちに美しい黄金色の球体が整列していった。  外はカリッと、中はトロッと。  完璧なたこ焼きが、湯気を上げて完成した。

「ほら、食べ!」  豊子さんに差し出された熱々のたこ焼きを、父は震える手で受け取り、口に入れた。  ハフッ、ホフッ。  カリッとした皮が破れると、中から熱々の出汁の効いたトロトロの生地と、プリプリのタコの旨味が溢れ出す。  バターもワインも入っていない。ただの粉と出汁とタコだ。  なのに、どうしようもなく、暴力的に美味い。

 父は、その場に膝から崩れ落ちた。 「……うまい。エスカルゴより、うまい……」  完敗だった。  ミシュランの星も、フレンチの技法も、大阪のオカンのソウルと技術の前には、無力だった。

 父は、エプロン姿のまま、その場で豊子さんに土下座をした。  床に額を擦り付ける、見事なジャンピング土下座だった。 「師匠! ……俺の思い上がりでした! どうか、俺に粉モンの極意を教えてください!」

 店内が静まり返る。  豊子さんはニカっと笑い、父の肩をバンと叩いた。 「しゃあないなぁ。ほな、月謝はラーメン大盛りで手打ったるわ!」 「ありがとうございます!!」

 わぁっ! と店内から拍手が巻き起こった。  健太たちが「すげー! おばちゃんカッコいい!」と歓声を上げ、私も母さんも、安堵と笑いで涙目になっていた。

 こうして、父の「フランスへの夢」は、大阪の風にかき消され、露と消えた。  その代わりに、「かぐらや」には、最強のたこ焼きという新たな武器が加わったのだった。

(第4回へつづく)