スピンオフ:かぐらや繁盛記 〜鉄板は熱いうちに打て〜
【第2回】 誤算と妥協、そしてラーメン
4.オープン初日の「ソースの反乱」
季節は巡り、木枯らしが吹き始めた十一月。 ついに、父の夢の城『Bistro KAGURA』がグランドオープンの日を迎えた。
開店前の店内は、完璧だった。 磨き上げられた床、ダウンライトに照らされたシックな内装、そしてBGMにはマイルス・デイヴィスの枯れたトランペットが流れている。 各テーブルに鎮座する巨大な鉄板さえ見なければ、ここは代官山の裏路地にあってもおかしくない、大人の隠れ家だ。
「よし……行くぞ、雅子、葵」 父は糊の効いた純白のコックコートに身を包み、腰にサロンを巻いて厨房に立った。その表情は、これから戦場に向かう指揮官のように引き締まっている。 「いらっしゃいませ。最高のおもてなしを。……よし、イメージトレーニングは完璧だ」 母さんも、少し緊張した面持ちでレジの前に立っていた。新しい制服のエプロンが初々しい。 私は学校があるので手伝いは夕方からだが、登校前にこの記念すべき瞬間を見届けることにしていた。
午前十一時。開店。 父が震える手で、ドアのプレートを『OPEN』に裏返す。
カランコロン。 意外なことに、ベルはすぐに鳴った。 最初のお客様だ。父の背筋がピンと伸びる。 「いらっしゃいませ! 『ビストロ・カグラ』へようこそ!」
入ってきたのは、商店街の顔役、豆腐屋のウメさん(当時78歳)と、そのお茶飲み友達のシゲさん、ヨネさんだった。三人合わせて二百歳を超える、最強の常連部隊だ。 「あら〜、神楽坂さんとこの新しいお店かい? 開店おめでとう」 「おやまぁ、綺麗な店だねぇ。靴脱いだほうがいいのかい?」 「いえいえ! そのままでどうぞ!」 母さんが笑顔で案内し、父がお冷を持っていく。 ウメさんたちは、窓際の四人がけテーブル席に座った。 そして、当然のように、目の前にある巨大な「それ」に注目した。
「おや……こりゃまた、立派な鉄板だねぇ」 ウメさんがシゲさんの顔を見る。シゲさんがヨネさんの顔を見る。そして三人は、我が意を得たりとばかりに頷き合った。 「マスター、これ、火ぃつけておくれよ」 「はい! かしこまりました!」 父は嬉々として点火スイッチを捻った。 (流石は商店街の重鎮だ。鉄板の熱でハンバーグを保温して食べるという、俺のコンセプトを一瞬で理解してくれたのか!) 父の期待は最高潮に達した。
「さて、それじゃあ注文しようかねぇ」 ウメさんがメニューを開くこともなく言った。 「焼きそば、三つ」
「…………はい?」 父の笑顔が凍りついた。 「焼きそばだよ。あと、お好み焼きも一枚焼こうかね。豚玉で」 「あ、あの、お客様……?」 父は引きつった笑みで、手元のメニューを指差した。 「当店はハンバーグ専門店でして……こちらに『デミグラスハンバーグ』や『和風おろしハンバーグ』が……」 「ん? 老眼で字が読めないよ」 シゲさんが悪気なく言い放つ。 「それにマスター、せっかくこんな立派な鉄板があるんだからさ。自分たちでジュージュー焼きたいじゃないか。ねぇ?」 「そうだねぇ。粉とキャベツがあればできるだろう?」
父は立ち尽くした。 これは、文化の衝突だった。 父にとって鉄板は「シェフが腕を振るうステージ」であり「最高の保温装置」だった。 しかし、地方都市の庶民にとって、目の前に鉄板があるということは、「お好み焼きか焼きそばを焼く」というパブロフの犬レベルの条件反射と同義なのだ。
「い、いえ、しかし材料が……」 父が断ろうとした、その時だった。 ドン! と厨房の扉が開き、母さんが風のように現れた。 「あります!!」 「ま、雅子!?」 母さんは父の襟首を掴み、強引に厨房へと引きずり込んだ。 「あなた! 何してるの! お客さんが食べたいって言ってるのよ!」 「で、でも、うちはビストロだぞ!? ソースの匂いがついたらワインの香りが……」 「四の五の言ってる場合じゃないわよ! 開店早々お客さんを帰す気!?」 母さんの目は据わっていた。経営者としての冷徹な計算が、一瞬で働いたのだ。 「材料はあるわよね? ハンバーグのつなぎ用の小麦粉と卵! 付け合わせ用のキャベツ! 豚肉はミンチにする前のバラ肉があるじゃない!」 「そ、それはそうだが……麺は?」 「私の昼ごはん用に買っておいた蒸し麺が三玉あるわ!」 「なんでそんな個人的なものを持ち込んでるんだ!!」
抵抗も虚しく、父はフライパンではなくボウルを握らされた。 数分後。 ウメさんたちのテーブルには、山盛りのキャベツが入ったボウルと、皿に乗った焼きそばの麺が運ばれた。 「あら、悪いわねぇマスター。無理言っちゃって」 「いえ……ごゆっくり……どうぞ……」 父は死んだ魚のような目で答えた。
ジュウゥゥッ!! 静かな店内に、豚肉が焼ける激しい音が響く。 続いて、ソースが焦げる香ばしい匂いが立ち上り、換気扇が回るよりも早く、店内に充満していった。 マイルス・デイヴィスの繊細なトランペットは、ヘラが鉄板を叩くカチャカチャという音にかき消された。
その日、店に来た客の八割が、入り口で「おっ、鉄板焼き屋か!」と言い、焼きそばとお好み焼きを注文した。 父が精魂込めて仕込んだデミグラスソースは、ウスターソースとお好みソースの強烈な香りの前で、完全に存在感を失っていた。
学校から帰った私が目にしたのは、厨房の隅で真っ白な灰になっている父と、電卓を叩きながら「……意外と利益率いいわね、粉モン」と呟く母の姿だった。 こうして『ビストロ・カグラ』は、開店初日にして事実上の崩壊を迎えたのである。
5.起死回生のラーメン修行
その後、店は「なんかお洒落な内装で、自分で焼けるお好み焼き屋」として、奇妙な繁盛を見せ始めていた。 父は毎日、ハンバーグを焼きながら、その横でお好み焼きのタネを作るという屈辱の日々を送っていた。 「俺は……小麦粉を水で溶くために、二十年も修行してきたのか……?」 閉店後の厨房で、父が鉄板を磨きながら呟くのを、私は何度も聞いた。
そんなある寒い夜のこと。 カウンターで晩酌をしていた魚屋の源蔵さん(浜田健太の父だ)が、ふと言った。 「なぁマスター。ここは温かい汁物はないのかい?」 「……スープなら、コーンポタージュとオニオングラタンスープがありますが」 「違うんだよなぁ。もっとこう、ガツンとくるやつだよ。締めにズルズルッといけるやつ」 源蔵さんは、手酌で酒を飲み干して言った。 「ラーメンとかさ」
ピクリ、と父の眉が動いた。 「ラーメン……ですか」 「おう。この辺は夜遅くまでやってるラーメン屋がねぇからな。マスターの腕なら、美味いのが作れるんじゃねぇか?」
その言葉は、父の中で燻っていた料理人としての魂に、油を注いだ。 父はプライドが高いが、それ以上に「美味いものを作りたい」「客を喜ばせたい」というサービス精神の塊なのだ。 粉モン屋の親父として甘んじている現状を打破するには、圧倒的な「料理」で客を唸らせるしかない。
翌朝。 厨房のテーブルに、一枚の書き置きが残されていた。 『探さないでくれ。本物の味を見つけてくる』 「……昭和のドラマか」 母さんは呆れて書き置きをゴミ箱に捨てたが、父が本気であることは理解していた。店は数日間、臨時休業となった。
一週間後。 父は、ボロボロになって帰ってきた。 無精髭を生やし、目は充血し、手には火傷の跡があった。 そして、その背中には大きな寸胴鍋を背負っていた。 「……できたぞ」 父の声は枯れていたが、その瞳はギラギラと輝いていた。 「雅子、葵。味見をしてくれ」
厨房で父が作ったのは、一見するとシンプルな醤油ラーメンだった。 しかし、スープの色が違った。透き通るような琥珀色。表面には黄金色の鶏油(チーユ)が輝いている。 私はレンゲでスープをすくって口に入れた。 「……っ!」 衝撃だった。 口に入れた瞬間、鶏の芳醇な香りが爆発し、後から魚介の深い旨味が波のように押し寄せてくる。 濃厚なのに、しつこくない。洋食のコンソメスープのような上品さと、昔ながらの中華そばの懐かしさが、奇跡的なバランスで同居していた。 「おいしい……! 何これ、お父さん!」 「うまいわね……。これ、どこのラーメン屋で習ってきたの?」 母さんも目を見開いている。 「隣町の行列店『一徹』だ。大将に土下座して、スープ作りだけ見学させてもらった。……そこに、俺が洋食で培ったブイヨンの技術を足したんだ」
父は拳を握りしめた。 「鉄板焼きや粉モンは、味が濃い。だからこそ、締めに欲しくなるのは、この『飲み干せるスープ』なんだ!」
翌日から、メニューに『特製ラーメン』の文字が加わった。 反応は劇的だった。 「うめぇぇぇ!! なんだこれ、専門店より美味いぞ!」 源蔵さんが叫び、丼を掲げた。 「マスター、やるじゃないか! このスープ、水筒に入れて持ち歩きたいよ!」 口コミは瞬く間に広がった。 昼はお好み焼きとハンバーグ、夜は締めのラーメン。 この支離滅裂な組み合わせが、奇跡的に噛み合ったのだ。
近所の学生たちが、部活帰りにラーメンを食べに来るようになった。 その中には、受験勉強の合間に来る佐竹涼子先輩や、まだ小学生だった悠真くんや健太たちの姿もあった。 店は連日満員となり、もはや誰もここを「ビストロ」とは呼ばなくなった。 看板の『Bistro』の文字はペンキで塗りつぶされ、代わりに源蔵さんがプレゼントしてくれた、力強い筆文字の暖簾が掛けられた。
『かぐらや』
それが、この店が「街の食堂」として生まれ変わった瞬間だった。 父はラーメンの湯切りをしながら、満足げに笑っていた。ハンバーグだけの店にするという夢は破れたけれど、もっと賑やかで、もっと温かい場所を手に入れたのだ。
しかし。 父の胸の奥には、まだ一つの「消えない野望」がくすぶり続けていた。 そう、あの、フランスから取り寄せた「穴の空いた鉄板」の存在である。 ラーメンでの成功が、父に余計な自信を与えてしまっていたことを、私たちはまだ知らなかった。
(第3回へつづく)