スピンオフ:かぐらや繁盛記 〜鉄板は熱いうちに打て〜

【第1回】 夢と鉄板の狂騒曲
1.カオスな朝の、幸福な匂い
その店の一日は、重たいシャッターを持ち上げる金属音と共に始まる。 ガラガラガラ……ドォン。 朝の七時。地方都市の商店街はまだ眠りの中にある。早朝の冷たく澄んだ空気が、開け放たれた入り口から店内へと流れ込み、昨夜の残り香――微かなソースの匂いと、洗剤の匂い――を外へと押し流していく。
私、神楽坂葵(かぐらざか・あおい)は、エプロンの紐をきゅっと腰で結び、大きく深呼吸をした。 中学三年生の春。高校受験という一大イベントを終え、晴れて自由の身となった私は、高校入学までの春休みを、家業の手伝いに捧げている。 「よし、今日もやりますか」 私は手に持った業務用のヘラ(コテ)をカチリと鳴らし、店内を見渡した。
我が家が営む店、「かぐらや」。 この店の外観は、商店街の中でも一際目を引く。レンガ造りの壁に、アンティーク調の街灯、そして『Kaguraya』と筆記体で書かれた木製の看板。蔦(ツタ)が絡まるその佇まいは、誰がどう見ても「お洒落な洋食屋」か、あるいは「こだわりの喫茶店」だ。 けれど、一歩足を踏み入れれば、その認識は心地よく、あるいは暴力的に裏切られることになる。
木目調の落ち着いたテーブルの全てに、銀色に鈍く光る、分厚い「業務用鉄板」が埋め込まれているのだから。
「葵、火ぃ入れるぞ」 厨房の奥から、父・信一(しんいち)の声が飛んでくる。 「はーい! 元栓開けるね!」 私がバルブを回し、各テーブルの点火スイッチを捻ると、ボッという音と共に青い炎が鉄板の下で踊りだす。 冷え切っていた鉄の塊が、徐々に熱を帯びていく。 それと同時に、厨房からは強烈な匂いが漂ってくる。コーヒーの香りではない。トーストの焼ける匂いでもない。 鶏ガラと豚骨、そして数種類の魚介と香味野菜を寸胴鍋で長時間煮込んだ、濃厚かつ繊細なラーメンスープの香りだ。
カランコロン。 開店の七時三十分を告げるドアベルが鳴り響く。 「おはよう! マスター、葵ちゃん!」 一番乗りで入ってきたのは、近所でクリーニング店を営む「シミ抜き職人」のタツさんだ。 「おはようございます、タツさん! いつもので?」 「おうよ! モーニングセット、卵は二つでな!」 父が厨房から「あいよ!」と威勢よく応える。 ここで言う「モーニングセット」とは、優雅なサラダとクロワッサンのことではない。 半ラーメンと半ライス、そして鉄板で焼く目玉焼きとウィンナーのセットのことだ。
私は、タツさんの席に油引きと生卵、そして醤油差しを置く。 タツさんは慣れた手つきで鉄板に油を引き、片手で器用に卵を割る。 ジュウゥゥッ! 白身が瞬時に白く固まり、縁がチリチリと焦げる音が店内に響く。これぞ「かぐらや」の目覚まし時計だ。 「へへっ、今日の鉄板もご機嫌だねぇ」 タツさんは嬉しそうにコテで黄身をつつく。
それを合図にするかのように、次々と常連客が入ってくる。 「おっはよー! 今日は寒いねぇ」 商店街の老人会のメンバー、通称「G3(ジイスリー)」の三人組だ。 「いらっしゃいませ! 今日は何にします?」 「わしらはアレだ、朝から精つけんといかんからな。もんじゃだ、もんじゃ!」 「朝からもんじゃですか!?」 私が驚くと、おじいちゃんたちは「粉モンは飲み物じゃ」と豪快に笑う。 私は苦笑しながら、キャベツたっぷりのもんじゃのタネと、明太子を運ぶ。
さらに、カウンター席には、コンビニ「スマイルマート」のオーナー、石川さんが夜勤明けの疲れた顔で座る。 「マスター……いつもの、濃いめで」 「石川さん、お疲れ様です。特製チャーシュー麺、にんにくマシですね」 父が湯切りのパフォーマンスを見せながら丼を用意する。
ラーメンの湯気。 ソースが鉄板で焦げる香ばしい匂い。 目玉焼きの爆ぜる音。 そして、サイフォンで淹れるコーヒーのコポコポという音。 あらゆるジャンルの食と音と匂いが混在し、混沌(カオス)という名のハーモニーを奏でている。
初めて来店したお客さんは、必ず入り口で立ち尽くし、目を白黒させてこう尋ねるのだ。 「……あの、ここ、何屋さんですか?」
その問いに対する正解を、私はまだ持っていない。 洋食屋であり、ラーメン屋であり、鉄板焼き屋であり、喫茶店でもある。 ただ一つ言えるのは、ここがこの街の人々にとって、なくてはならない「温かい場所」だということだ。
私は鉄板の隅についたソースの焦げをガリガリと削り取りながら、ふと思う。 この店が、こんな不思議な形態になったのはなぜだったか。 それは、海よりも深く、そして鉄板よりも熱い、父さんの「情熱」と、ほんの少しの「ボタンの掛け違い」から始まった物語なのだ。
2.父の野望、その名は「ビストロ・カグラ」
時計の針を、五年ほど前に戻そう。 私がまだ小学生だった頃、父・神楽坂信一は、隣町の老舗洋食屋で働く雇われシェフだった。 父の作る料理は、子供心にも「世界一」だと思えるほど美味しかった。 特にハンバーグは絶品だった。ナイフを入れた瞬間に溢れ出す肉汁は、まるでダムの放流のよう。数日間煮込んだ特製のデミグラスソースは、舐めた皿まで光り輝くほどのコクがあった。
そんな父には、口癖があった。 「いつか、自分の城を持つ」 仕事から帰り、晩酌のビールを飲みながら、父はいつも遠い目をしていた。 「雇われじゃダメなんだ。オーナーの顔色を伺って、コストカットだの回転率だのを気にしてちゃ、俺の理想の料理は出せない」
そして、ある日の夕食時。 父は、まるで革命前夜の志士のような顔つきで、バン! とテーブルを叩いた。 「決めたぞ雅子(母さんのことだ)、葵。……店をやる」 「あら、またその話?」 母さんは味噌汁をよそいながら、柳に風と受け流す。いつもの酔っ払いの戯言だと思ったのだろう。 しかし、今日の父は違った。懐から一枚の図面を取り出し、テーブルに広げたのだ。 「今回は本気だ。テナントの契約も済ませてきた」 「はあ!?」 母さんの悲鳴がリビングに響いた。「あんた、貯金はどうするのよ! まさか退職金全部つぎ込む気じゃないでしょうね!?」 「金ならなんとかなる! 銀行も説得した! ……見てくれ、これが俺の夢の城だ」
父が指差した図面。そこには、『Bistro KAGURA』という洒落た店名と共に、内装のレイアウトが描かれていた。 木目を基調としたシックな店内。カウンター席と、四人がけのテーブル席が五つ。 ここまではいい。問題は、そのテーブル席の「仕様」だった。 「あなた……このテーブルの真ん中にある四角いの、何?」 母さんが震える指で指摘する。 父は、ニヤリと不敵な笑みを浮かべた。 「よくぞ聞いてくれた。これぞ、俺が長年温めてきた最強の秘策……『全席・業務用鉄板』だ!!」
時が止まった。 業務用鉄板。それは、お好み焼き屋か、あるいはシェフが目の前でステーキを焼いてくれる高級店にしかない代物だ。 「て、鉄板? 洋食屋やるんでしょ? なんで鉄板がいるのよ」 「甘いな雅子。いいか、料理ってのは『温度』が命なんだ」 父は立ち上がり、熱弁を振るい始めた。 「俺のハンバーグは、焼きたてが一番美味い。皿に盛って客席に運ぶまでの数秒間でさえ、温度は下がり、肉汁の活性は失われていく。それが俺には我慢ならないんだ!」 父は拳を握りしめる。 「だから、俺は考えた。客の目の前にある鉄板で、ハンバーグを焼き上げ、そのまま食べてもらう。最後の一口まで熱々で、肉汁が跳ねるようなライブ感! これこそが、俺の目指す究極の洋食なんだ!」
「……バカじゃないの?」 母さんが冷たく言い放った。 「そんな設備入れたら、いくらかかると思ってるの? 排気ダクトの工事費だってバカにならないわよ。それに、夏場はどうするの? 店内灼熱地獄よ?」 「空調を最強にすればいい! コストは……俺が休日返上で内装工事を手伝って浮かせる!」 「そういう問題じゃないわよ! 大体、そんな油ギトギトの店、お洒落な奥様方が来るわけないじゃない!」 「油ギトギトにはさせない! 毎日俺が鏡のように磨き上げる!」
そこからは、夫婦の戦争だった。 現実的な経営視点を持つ母と、ロマンと理想に生きる父。 毎晩のように繰り広げられる激論に、小学生の私はオロオロするばかりだった。 しかし、最終的に折れたのは母さんの方だった。 「……もう、知らないからね」 母さんは深いため息をついて、降伏宣言をした。 「その代わり、内装デザインは私が決めるわよ。鉄板があるからって、『お好み焼き屋』みたいな提灯ぶら下げるような真似はさせないからね。あくまで『ビストロ』に見えるようにするんだから」 「おう! 任せろ! ありがとう雅子! 愛してるぞ!」 父は子供のように母さんに抱きつき、そして私に向かって親指を立てた。 「見たか葵! 父さんの夢が、動き出すぞ!」
3.フランスの風、エスカルゴの悲劇
こうして、父の暴走気味の夢は、現実というレールの上を走り出した。 工事は急ピッチで進んだ。 母さんのセンスにより、内装はダークブラウンの木材と白漆喰の壁で統一され、落ち着いたジャズが似合う空間に仕上がった。 しかし、そこに運び込まれたのは、重厚長大な業務用鉄板付きテーブルだ。 優雅な空間に鎮座する、黒光りする鉄の塊。その違和感は、タキシードを着て工事現場に立つようなシュールさがあった。
そして、オープンを一週間後に控えたある日のこと。 店に、重そうな木箱が届いた。 海外からの輸入品らしいラベルが貼られている。 「なんだこれ、父さん?」 学校帰りに店に寄った私が尋ねると、父は「ふふふ」と怪しげな笑い声を漏らしながら、バールで木箱をこじ開けた。 「葵、これはな、この店の『隠し球』だ」 緩衝材の中から現れたのは、直径二十センチほどの、黒くて重い鋳鉄(ちゅうてつ)のプレートだった。 表面には、半球状の窪みが六つ、規則正しく並んでいる。 「……何これ? たこ焼き器?」 私が素直な感想を述べると、父は「バカ言っちゃいけない」と心外そうに眉をひそめた。 「たこ焼きなんていう、そんな庶民的なものじゃない。これはな、フランスから取り寄せた特注の『エスカルゴ・プレート』だ!」
「エスカルゴって……あの、カタツムリ?」 「そうだ! フランス・ブルゴーニュ地方の伝統料理、『エスカルゴ・ア・ラ・ブルギニョン』! ニンニクとパセリを練り込んだ香草バターをたっぷりと詰め込み、このプレートでグツグツと焼き上げるんだ!」 父はプレートを両手で掲げ、天井のスポットライトにかざした。 「うちの鉄板テーブルはな、一部の鉄板を取り外して、このプレートをはめ込めるように特注してあるんだ。熱々の鉄板で、ワイングラスを傾けながらエスカルゴをつつく……。これぞ、俺がこの商店街に吹かせたい『フランスの風』だ!」
父の瞳は、未来への希望でキラキラと輝いていた。 けれど、私は子供心に、強烈な不安を感じていた。 この商店街のお客さんたち――豆腐屋のウメさんや、魚屋の源蔵さんたちが、カタツムリを食べる姿が、どうしても想像できなかったからだ。 「……ねえ父さん。みんな、カタツムリ食べるかなぁ?」 「食べるさ! 美味いものは、国境も文化も超えるんだ!」 父の自信は揺るぎなかった。 母さんがこのプレートの請求書を見て、「あんた! この鉄屑いくらしたのよ!」と激怒したのは、その数時間後のことである。
(つづく)