地方都市のメロディ 〜桜舞う通学路〜
第30話(最終話):新しい春の予感、そして次の季節へ
また、この季節がやってきた。 窓を開けると、甘く柔らかい花の香りと、温んだ土の匂いが一度に押し寄せてくる。 地方都市の空は、どこまでも高く、澄み渡るような水色をしている。
「悠真、早くしないと遅れるぞ!」 玄関先で母の声がする。 「わかってるよ!」 蒼井悠真は新しい靴紐をきゅっと結び、カメラを鞄に入れた。 今日から、中学三年生。 一年前と同じように桜は満開だけれど、鏡に映る自分は、あの頃よりも少しだけ背が伸び、顔つきも大人びたような気がする。
家を出ると、見慣れた桜並木が続いていた。 舞い散る花びらの絨毯を踏みしめながら歩く。 足音のリズムは、一年前のような浮き足立ったものではなく、地面をしっかり捉える確かなものになっていた。
「悠真!」 交差点で、浜田健太が手を振っていた。 「よう、部長。貫禄出てきたんじゃないか?」 悠真がからかうと、健太は照れくさそうに笑った。彼は引退した先輩の後を継ぎ、水泳部の部長に指名されたのだ。 「よせよ。……ま、気合い入れて引っ張ってくしかねぇだろ」 その表情は、ただのお調子者だった頃とは違う、頼もしさを帯びている。
「お二人さん、おはよう」 藤沢琴音と秋山陸斗も合流する。 琴音は合唱部のパートリーダーとして、陸斗は……相変わらずマイペースだが、先日行われたオンライン大会で好成績を残し、少し自信をつけたようだ。 「クラス替え、どうなるかしらね」 「僕は確率論的に、健太と同じクラスになる可能性が高いと予測している」 「げっ、マジかよ! 陸斗の講釈聞くのもう飽きたぜー」 「光栄だ」 軽口を叩き合う関係は変わらないが、その底には二年間で培った揺るぎない信頼がある。
「おっはよー!」 神楽坂葵が走ってきた。そのエプロン姿が板についてきた彼女は、朝の店の仕込みを手伝ってから登校している。 「おはよう、葵ちゃん。……あれ、陽菜は?」 悠真が尋ねると、葵は後ろを指差した。 「すぐそこまで来てるよ。ボタニカル部の朝練だって」
視線の先、桜並木の向こうから、桜庭陽菜が歩いてきた。 風が吹き、桜吹雪が舞う。 その中を歩く陽菜の姿を見て、悠真は思わず立ち止まった。 一年前、同じ場所で見た彼女よりも、今の彼女はずっと綺麗に見えた。 植物に触れ、季節を感じ、笑ったり悩んだりして積み重ねた時間が、彼女を内側から輝かせているのだ。
「おはよう、悠真くん。みんな」 陽菜が微笑む。 「おはよう、陽菜」 悠真が返すと、陽菜の瞳がふわりと緩んだ。 「……桜、満開だね」 「うん。去年よりも綺麗かもしれない」
始業式の後、新しいクラスが発表された。 運命の悪戯か、あるいは必然か、六人はまたしても同じクラスになったり、隣のクラスになったりと、離れることはなかった。 「よっしゃあ! また一緒だな!」 「腐れ縁ね」 「まあ、悪くない」 教室の窓からは、満開の桜と、その向こうに広がる街並みが見える。 ここが、彼らの「日常」の舞台だ。
放課後。 ホームルームが終わると、悠真は一人で屋上への階段を登った。 この場所から見る景色が好きだった。 遠くに見える山、光る川、賑わう商店街。 レンズ越しに覗くと、それぞれの場所で、人々が生活を営んでいるのが見える。 コンビニの前では、高校三年生になった佐伯結衣先輩が、後輩たちに何か熱心に話しているのが見えた。きっと、新しい「裏生徒会長」への引き継ぎでもしているのだろう。 店の中では、石川さんが今日も温かい笑顔でレジに立っているはずだ。 「かぐらや」からは、夕飯の仕込みのいい匂いが漂い始めているだろう。
「……ここにいたんだ」 背後から声がして振り返ると、陽菜が立っていた。 「陽菜」 「悠真くん、またここに来るかなって思って」 陽菜は隣に来て、フェンス越しに同じ景色を見つめた。 「……もう三年生だね」 「ああ。あっという間だったな」 「これから、受験とか、進路とか、いろいろ大変になるね」 陽菜の声に、少しだけ不安の色が混じる。 悠真はカメラを下ろし、陽菜の方を向いた。 「大丈夫だよ」 「え?」 「僕たちには、この街があるし、みんながいる。……それに」 悠真は言葉を探し、そして真っ直ぐに陽菜の目を見て言った。 「僕が、撮り続けるから」 「……?」 「陽菜が笑ってる顔も、悩んでる顔も、頑張ってる姿も。全部、僕が写真に残すよ。だから、忘れたりしないし、見失ったりしない」 それは、悠真なりの、精一杯の「約束」だった。 カメラマンとして、そして一人の男子として、彼女のそばに居続けるという宣言。
陽菜は目を丸くして、それから、花が咲くように柔らかく笑った。 「……うん。頼りにしてるね、専属カメラマンさん」 春風が吹き抜け、陽菜の髪を揺らした。 その瞬間、悠真の心臓が大きく跳ねた。 言葉にしなくても伝わる、温かいもの。友情よりも少し熱く、恋よりも確かな信頼。 二人の間に流れる空気が、桜色に染まっていくようだった。
「おーい! 悠真! 陽菜! 置いてくぞー!」 下から健太の大声が聞こえた。 校門の前で、葵、琴音、陸斗が手を振っている。 「行こう。みんな待ってる」 「うん!」
二人は階段を駆け下り、仲間たちの元へ走った。 「遅いぞ! 今日は進級祝いで『かぐらや』貸切だぞ!」 「鉄板焼きパーティーよ!」 「僕の計算では、予算オーバーの可能性があるが……」 「細かいことは気にするな!」
賑やかな笑い声が、桜並木に響き渡る。 夕日が六人の影を長く伸ばし、一つに溶け合わせていく。 なんてことのない日常。 どこにでもある地方都市の、ありふれた放課後。 けれど、それは彼らにとって、世界でたった一つの、かけがえのない青春のメロディだ。
悠真は走りながら、カメラを振り返りざまに向けた。 ファインダーの中には、最高の笑顔で並ぶ仲間たちと、隣で笑う陽菜。 そして、舞い散る桜の花びら。 シャッターを切る。 カシャッ。
その音は、新しい季節の始まりを告げる合図のように、高らかに響いた。 僕たちの物語は、まだ終わらない。 この桜舞う通学路から、未来へと続いていくのだ。
(完)