地方都市のメロディ 〜桜舞う通学路〜
第29話:旅立ちの春、中学三年生たちの卒業
三月の中旬。地方都市には、まだ冷たい風が吹いていたが、その中には確かに春の匂いが混じっていた。 校庭の桜の木は、硬い蕾を膨らませ、いまかいまかと開花の時を待っている。
「卒業生、入場」
体育館に、吹奏楽部の演奏する『威風堂々』が響き渡った。 拍手の中、少し大きめの制服を着ていた三年前とは違い、今は背筋を伸ばし、堂々とした足取りで入場してくる三年生たち。 胸にはコサージュ、手には卒業証書を入れる筒。 その顔は、晴れやかで、そしてどこか誇らしげだ。
在校生席に座る蒼井悠真は、膝の上に置いたカメラを握りしめていた。 今日は写真部として、式の記録係を任されている。 ファインダーを覗くと、そこには「別れ」の景色が広がっていた。 涙を堪えて唇を噛む女子生徒、照れ隠しにふざけ合おうとして先生にたしなめられる男子生徒。 そして、その中に佐竹涼子先輩の姿もあった。 彼女は真っ直ぐ前を見つめ、凛とした表情で歩いていた。受験という荒波を乗り越え、ひと回りもふた回りも大きくなった背中だ。
「……卒業証書授与」
名前を呼ばれ、一人ずつ壇上に上がる。 『はい!』 静まり返った体育館に、それぞれの声が響く。 それは単なる返事ではなく、この学び舎で過ごした三年間への決着と、未来への宣誓のように聞こえた。
悠真はシャッターを切った。 カシャッ。 講堂の少し湿っぽい空気、パイプ椅子の冷たさ、そして先輩たちの涙。 これら全てが、二度と戻らない時間の証だ。 隣に座る桜庭陽菜が、ハンカチを目元に当てているのが視界の端に入った。感受性の強い彼女のことだ、きっと先輩たちの想いに共鳴して泣いているのだろう。 神楽坂葵も、浜田健太も、いつになく神妙な顔つきで式を見守っている。
式が終わり、卒業生たちが退場していく。 『仰げば尊し』の歌声が、涙で震えていた。 拍手が鳴り止まない。 悠真はファインダー越しに、去りゆく背中を見送った。 (行ってしまうんだな……) 当たり前のことだけれど、その事実は重く、寂しい。 あの頼もしかった先輩たちが、明日からはもうここにはいない。 この学校の最高学年は、自分たちになるのだ。
*
式後の昇降口前は、花束や色紙を持った生徒たちでごった返していた。 「先輩! 第二ボタンください!」 「今までありがとうございました!」 あちこちで歓声と悲鳴が上がり、記念撮影が行われている。
「あ、涼子先輩!」 葵が人混みの中に佐竹涼子を見つけ、大きく手を振った。 「葵ちゃん! みんな!」 涼子は卒業証書の筒を抱え、満面の笑みで駆け寄ってきた。その表情は、冬の「かぐらや」で見せていた張り詰めたものではなく、春の日差しのように柔らかい。 「ご卒業、おめでとうございます!」 六人が口を揃えて言うと、涼子は「ありがとう」と少し照れくさそうに笑った。 「先輩、受験……どうでした?」 健太がおそるおそる尋ねる。 「……うん。無事、第一志望に合格したよ」 「やったぁ! おめでとうございます!」 葵が自分のことのように飛び跳ねて喜ぶ。 「よかった……本当によかったですね」 陽菜も涙ぐみながら微笑んだ。
「みんなのおかげだよ。『かぐらや』で勉強させてもらって、差し入れもらって、励ましてもらって……。一人じゃきっと、挫けてた」 涼子はそう言って、愛おしそうに校舎を見上げた。 「私ね、この学校が好きだった。大変なこともあったけど、振り返ってみれば全部いい思い出。……みんなも、あと一年、悔いのないように楽しんでね」 涼子の言葉には、経験した者だけが持つ重みと、優しさがあった。
「はい! 先輩の分まで楽しみます!」 健太が胸を張る。 「部活も、受験も、頑張ります」 琴音が眼鏡を直して誓う。 「……データの引き継ぎは完了しました。後の攻略は任せてください」 陸斗なりの敬意を表す。
「ふふ、頼もしい後輩たちだね」 涼子はそう言って、一人ひとりの顔を見た後、最後に悠真と目が合った。 「悠真くん、写真、期待してるよ。私たちの生きた証、綺麗に残してね」 「はい。任せてください」 悠真はカメラを持ち上げ、涼子に向けた。 「先輩、最後の一枚、いいですか?」 「もちろん!」 涼子は卒業証書を胸に抱き、最高の笑顔を見せた。 背景には校舎と、蕾の膨らんだ桜の木。 カシャッ。 春風が吹き抜け、彼女の髪を揺らした瞬間を、悠真は永遠に閉じ込めた。
「じゃあね、みんな! また『かぐらや』に食べに行くから!」 「待ってます!」 涼子は大きく手を振り、校門の方へと歩き出した。 その背中は、希望に満ちていて、眩しかった。 門を出て、角を曲がり、見えなくなるまで、悠真たちはその場を動けなかった。
「……行っちゃったね」 陽菜がポツリと言った。 「ああ」 悠真は空を見上げた。 青く澄み渡った空に、飛行機雲が一筋伸びている。 通過点。石川さんの言葉を思い出す。 先輩たちは、この場所を通過して、新しい世界へと飛び立っていった。 そして自分たちも、あと一年でその時を迎える。
「俺たち、三年生になるんだな」 健太が呟く。 「そうね。もう甘えてばかりはいられないわ」 琴音が気を引き締めるように言う。 寂しさはある。不安もある。 けれど、先輩が見せてくれたあの笑顔が、大丈夫だと教えてくれている気がした。
「よし! 帰ろうぜ! 今日は『かぐらや』でお祝いだ! 涼子先輩の合格祝い(本人はいないけど)!」 「いいね! 賛成!」 いつもの賑やかさが戻ってきた。 けれど、その足取りは昨日までとは少し違う。 一歩一歩、地面を踏みしめる音が、少しだけ大人びて響いた。
悠真は、誰もいなくなった昇降口を振り返り、もう一度シャッターを切った。 ガランとした下駄箱。舞い散る紙吹雪。 祭りの後のような静寂の中に、新しい季節の予感が満ちていた。 さようなら、先輩たち。 そして、こんにちは、新しい僕たち。
(第30話・最終回へつづく)