地方都市のメロディ 〜桜舞う通学路〜
第27話:雪の日の登校、特別な景色
朝、目が覚めた瞬間、世界から「音」が消えていることに気づいた。 車の走行音も、鳥のさえずりも聞こえない。ただ、シンとした静寂だけが部屋を満たしている。 そして、カーテンの隙間から差し込む光が、いつもより青白く、眩しい。
蒼井悠真はベッドから跳ね起き、カーテンを開けた。 「うわ……」 思わず声が漏れる。 窓の外は、一面の銀世界だった。 屋根も、道路も、向かいの家の柿の木も、すべてが分厚い雪に覆われ、街の角という角が丸く優しく塗り替えられている。 この地方都市では、年に一度あるかないかの大雪だ。
「悠真ー! 起きてる? 雪すごいわよ!」 階下から母の声が聞こえる。 「起きてる! すぐ行く!」 悠真は慌てて着替え、朝食をかき込むと、いつもより早く家を出た。 玄関を開けると、凛とした冷気が頬を刺す。吐く息が真っ白に凍りついた。
一歩踏み出すたびに、『ギュッ、ギュッ』という雪を踏みしめる音が響く。 誰も歩いていない新雪に足跡をつける、ささやかな背徳感と高揚感。 通学路の桜並木は、白い花が満開になったかのように雪を纏い、朝日を浴びてキラキラと輝いている。 悠真は手袋を外してカメラを取り出し、その幻想的な光景を切り取った。 シャッター音が、吸音材のような雪に吸い込まれていく。
「おはよー! 悠真くん!」 後ろから、もこもこのダウンコートにマフラーをぐるぐる巻きにした桜庭陽菜が、ペンギンのように小走りでやってきた。 「おはよう、陽菜。すごいね、雪」 「うん! 起きたらびっくりしちゃった。転ばないようにね」 そう言いながら陽菜自身が滑りかけ、悠真が慌てて腕を支える。 「おっと……危ない危ない」 「えへへ、ありがとう。……なんか、街が別の場所みたいだね」 「ああ。静かで、綺麗だ」
二人が並んで歩いていると、前方の交差点で雪玉が飛んできた。 「ふははは! 隙あり!」 電柱の影から飛び出してきたのは、浜田健太だ。 「うわっ! 冷てぇ!」 悠真が肩についた雪を払う。 「健太、朝から元気すぎ……」 「雪だぞ! テンション上がんないわけねーだろ!」 健太は既に手袋を濡らし、次の雪玉を作っている。 「あ、陽菜ちゃん、おはよう! 女子には投げない紳士協定だから安心してくれ」 「ありがとう、健太くん。でも、後ろ気をつけて」 「え?」 健太が振り返った瞬間、背後から無数の雪玉が飛んできた。 「……ターゲット補足。一斉射撃」 秋山陸斗の号令と共に、神楽坂葵と藤沢琴音が雪玉を投げつける。 「ぐわぁぁぁ! 裏切り者ぉぉぉ!」 雪まみれになる健太を見て、みんなが爆笑した。 「おはよう、みんな。陸斗も珍しく参加してるんだな」 悠真が聞くと、陸斗は眼鏡についた雪を拭いながら言った。 「雪合戦は弾道計算のシミュレーションに最適だからな。それに、この寒さでサーバー(体)がダウンしないように熱を発生させる必要がある」 「要するに、遊びたかっただけでしょ」 葵が笑いながら雪玉を悠真に手渡す。 「ほら悠真も! 始業式までバトルロイヤルだよ!」
学校に着くと、校庭は既に真っ白なキャンバスではなく、足跡だらけの戦場になっていた。 全校生徒が子供に戻ったかのように雪と戯れている。 悠真たちは、雪だるまを作ることにした。 「もっと大きく! 胴体しっかり固めて!」 葵が指示を出し、健太と陸斗が雪玉を転がす。 陽菜と琴音は、落ちていた松ぼっくりや小枝で顔のパーツを集めてきた。 「完成! 『雪だるま・かぐらや一号』!」 出来上がったのは、少し歪だが愛嬌のある、巨大な雪だるまだった。 最後に琴音が自分のマフラーを巻いてあげる。 「寒そうだからね」 「琴音ちゃん、優しい」
キーンコーンカーンコーン。 予鈴が鳴り、生徒たちが慌てて昇降口へと走っていく。 教室に入ると、ストーブの暖かさが冷え切った体を解凍していく。 窓ガラスは結露で曇り、指で落書きされた跡がついている。 授業中、先生の声を聞きながら、悠真はぼんやりと窓の外を眺めた。 しんしんと降り続く雪。 校庭の雪だるまが、ポツンと佇んでいる。 この雪も、放課後には溶けて、明日の朝には凍ってしまうだろう。 美しい景色は、一瞬で消えてしまう。 だからこそ、写真に残す意味があるのかもしれない。
放課後。 雪は小降りになり、空には薄紫色の夕暮れが広がっていた。 帰り道、雪だるまは少し溶けて小さくなっていたけれど、まだしっかりとそこに立っていた。 「また明日ね」 陽菜が雪だるまに手を振る。
「……なんか、あっという間だったな」 健太がつぶやく。 「雪の日って、特別な感じがして、時間が経つのが早い気がする」 「非日常における心理的体感時間の短縮だな」 陸斗が補足する。
悠真は、溶けかけた雪道を歩きながら、今日撮った写真を見返した。 朝の光、雪合戦の躍動感、雪だるまとの集合写真。 どれも、白くて眩しい、今日だけの輝きだ。 「……寒かったけど、いい一日だったね」 悠真が言うと、みんなが頷いた。 「うん。カイロ貼ってきて正解だったわ」 琴音がポケットに手を入れる。
三学期は短い。 雪が溶ければ、春が来る。 そして、それぞれの進級が待っている。 この雪景色のように、今の時間はいつか溶けて形を変えてしまうかもしれないけれど、心に残る冷たさと温かさは、ずっと消えないだろう。
「気をつけて帰ろうぜ。凍ってるから」 「明日、筋肉痛になりそう……」 「それな」
それぞれの家路につく背中に、粉雪が舞い降りる。 地方都市の冬の、ささやかで特別な一ページ。 悠真はカメラを抱きしめ、滑らないように慎重に一歩を踏み出した。
(第28話へつづく)