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第17話:琴音の情熱、写真が語る坂本龍一

地方都市のメロディ 〜桜舞う通学路〜

第17話:琴音の情熱、写真が語る坂本龍一

文化祭まであと二週間。 放課後の校舎は、非日常的な熱気と喧騒に包まれていた。 廊下のあちこちには段ボールやペンキ缶が積み上げられ、教室からは金槌を叩く音や、演劇の練習をする大声が響いてくる。 甘酸っぱい青春の匂いと、絵の具の匂いが混じり合う、独特の空気感。

「悠真ー! このベニヤ板、運ぶの手伝えー!」 「はいよ!」 蒼井悠真は、クラスの出し物である「縁日」の屋台作りを手伝いながら、首から下げたカメラでその様子を記録していた。 クラスメイトがペンキまみれになって笑い合う顔、真剣な眼差しで看板を描く横顔。 「記録係」という役得で、悠真はクラスの輪の中を自由に行き来し、この祭りの準備期間という貴重な時間を切り取っていた。

ひとしきり作業が落ち着いた頃、悠真は写真部の展示準備のために、特別棟にある部室へと向かった。 本校舎の喧騒が嘘のように、特別棟は静まり返っている。 写真部の部室に入ると、現像液の微かな酸っぱい匂いがした。 「さてと……」 悠真は長机の上に、これまで撮りためた写真を広げた。 今回の展示テーマは『僕たちの街、僕たちの日常』。 桜庭陽菜が花壇で微笑む写真、浜田健太が海で魚のように泳ぐ写真、神楽坂葵が夕暮れの川辺で見せた少し寂しげな背中。 どれも、悠真にとって大切な「記憶」だ。

「……失礼します」 ノックの音と共に、控えめな声がした。 ドアが開くと、そこには合唱部の練習帰りと思われる藤沢琴音が立っていた。 「あ、琴音ちゃん。お疲れ様」 「悠真くんもお疲れ様。……少し、涼ませてもらっていい? 音楽室、熱気がすごくて」 琴音は少し疲れた様子で、額の汗をハンカチで拭った。 「どうぞ。ここ、エアコンはないけど風通しはいいから」 悠真がパイプ椅子を勧めると、琴音は「ありがとう」と腰を下ろした。 「合唱部、どう? 順調?」 「ええ、まあね。でも、ソプラノとアルトのバランスがまだ……。もっと響きを『溶け込ませたい』のだけど、みんな張り切りすぎて音がぶつかっちゃうの」 琴音は眉間を揉みながらため息をついた。彼女の求める理想の音と、現実の部活動の間で、彼女なりに葛藤しているようだ。

ふと、琴音の視線が机の上に広げられた写真に向けられた。 「これ、今回の展示?」 「うん。まだセレクト中なんだけどね」 琴音は立ち上がり、並べられた写真を一枚一枚、丁寧に見ていった。 「……みんな、いい顔してるわね。悠真くんが撮ると、みんな無防備になるみたい」 「そうかな。だと嬉しいけど」

琴音の手が、机の端に置かれた一枚の写真で止まった。 それは、人物が写っていない、何気ない風景写真だった。 六月の雨上がりの日、陽菜と帰った時に撮った、アスファルトの水たまり。 そこに映り込んだ曇り空と、濡れて黒く光る道路、そして道端の雑草が、絶妙なバランスで切り取られている。 派手さは全くない。むしろ、暗くて地味な写真だ。 悠真自身も、なぜこれをプリントしたのかわからず、展示からは外そうと思っていた一枚だった。

「……これ」 琴音の指が、写真の上をなぞる。 「え? ああ、それ、失敗作というか……ただなんとなく撮っただけで」 悠真が言い訳しようとすると、琴音は首を横に振った。 「ううん。……これ、すごく『音楽』だわ」 「音楽?」 琴音は顔を上げ、眼鏡の奥の瞳を強く輝かせた。 「悠真くん。貴方、坂本龍一の音楽を、どう思う?」 唐突な質問に、悠真は戸惑った。 「えっと……『戦場のメリークリスマス』とか? ピアノが綺麗な……」 「そうよね。みんなそう言うわ」 琴音は少し食い気味に、一歩前に出た。 「でもね、彼の音楽の本質は、あの美しいメロディだけじゃないの。むしろ、彼はそこから逃れようとしていた。……『音』そのものの響き、減衰していく余韻、そしてその向こう側にある『ノイズ』」

琴音のスイッチが入ったのを、悠真は感じた。普段の冷静な彼女とは違う、内なる情熱が溢れ出している。 「この写真を見て。……ここには、被写体としての『主役』がいないでしょう? でも、雨の匂いとか、湿った空気の重さとか、遠くで車のタイヤが水を弾く音とか……そういう『気配』が充満してる」 琴音は熱っぽく語り続ける。 「教授……坂本龍一はね、晩年、雨の音や、廃墟の風の音、壊れたピアノの音……そういう、人間がコントロールできない『環境音』と、楽器の音を対等に扱っていたの。作為的なメロディよりも、そこにある『響き』に耳を澄ませていた」 彼女は写真を両手で持ち上げた。 「この写真には、作為がないわ。『綺麗に撮ろう』とか『感動させよう』っていう押し付けがましさがない。ただ、そこにある世界を、あるがままに、静かに肯定している……。まるで、アルバム『async』の世界観みたい」

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中学生が語るには、あまりに早熟で、専門的な解釈だった。 けれど、悠真には彼女の言いたいことが、感覚として伝わってきた。 自分がこの写真を撮った時、何を感じていたか。 それは「綺麗だ」という感情以前の、ただ世界がそこにあるという「静寂」への感動だったかもしれない。

「……すごいな、琴音ちゃんは」 悠真は素直に感嘆した。 「僕の写真から、そこまで読み取ってくれるなんて」 「読み取ったんじゃないわ。……聴こえたの」 琴音は写真を見つめたまま、独り言のように言った。 「私、合唱部のみんなにも、こういう『音』を出してほしいの。大きな声で歌うだけじゃなくて、空間に溶け込むような、透明な音を。……でも、なかなか伝わらなくて」 彼女は悔しそうに唇を噛んだ。 その拍子に、熱弁で少し汗ばんだ鼻梁から、眼鏡がつるりと滑り落ちた。 「あっ」 慌てて両手で眼鏡を押さえる琴音。 その仕草が、あまりにも無防備で、そして年相応に可愛らしくて、張り詰めていた空気が一気に緩んだ。

「……ぷっ、あはは!」 悠真が吹き出すと、琴音は顔を真っ赤にした。 「わ、笑わないでよ! 真剣に話してたのに!」 「ごめんごめん。でも、琴音ちゃんのそういうところ、すごくいいと思うよ」 悠真は笑いながら、でも真面目な眼差しで言った。 「その情熱があれば、きっと伝わるよ。琴音ちゃんの『音』、文化祭で聴けるの楽しみにしてる」

琴音は眼鏡をかけ直し、少し照れくさそうに、でも嬉しそうに微笑んだ。 「……ありがとう。悠真くんのこの写真も、絶対に展示してね。私が一番のファンになるから」 「うん。わかった」

キーンコーンカーンコーン。 完全下校のチャイムが鳴った。 「行かなきゃ。……また明日ね、悠真くん」 「また明日」

琴音が部室を出て行くと、悠真はもう一度、あの水たまりの写真を手にとった。 さっきまでは「地味な失敗作」に見えていた写真が、今は静かな音楽を奏でているように見えた。 『そこにある世界を、あるがままに肯定している』 琴音の言葉を反芻する。 それは、悠真が写真を撮る理由の、一番深い部分に触れた言葉だった。

「……タイトル、何にしようかな」 悠真は写真をパネルの真ん中に配置した。 文化祭の喧騒の中で、誰か一人でも、この「静寂」に足を止めてくれたらいい。 悠真は、確かな手応えを感じながら、部室の明かりを消した。

(第18話へつづく)