地方都市のメロディ 〜桜舞う通学路〜
第14話:夏休みの幕開け、それぞれの自由
終業式の翌朝。 目覚まし時計をセットせずに眠れるという贅沢な朝を迎え、蒼井悠真はゆっくりと目を開けた。 窓の外からは、昨日までよりも一層激しさを増したような蝉時雨が降り注いでいる。 カーテンを開けると、目が眩むような白い日差し。 「……夏休みか」 独り言が、誰もいない部屋に溶ける。 今日から約一ヶ月間、チャイムに縛られない自由な日々が始まるのだ。
悠真はリビングに降り、冷えた麦茶を一気に飲み干した。 両親はすでに仕事に出かけており、テーブルには「お昼は適当に食べてね」というメモと千円札が置かれている。 この放置された感じもまた、夏休みの醍醐味だ。 悠真は自室に戻り、愛機である一眼レフカメラをデスクの上に置いた。 明日は待ちに待った、健太の父の船で行く海への小旅行だ。 ブロアーでレンズの埃を飛ばし、専用のクロスで丁寧に磨き上げる。 「頼むぞ。明日は大事な一日だからな」 レンズの奥に映る自分の顔に向かって呟く。 ファインダー越しに見る初めての海。そして、水着姿の陽菜。 想像するだけで、心拍数が少し上がるのを感じた。
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その頃、秋山陸斗の部屋は、真昼だというのに深い闇に包まれていた。 遮光カーテンを二重に閉め切り、エアコンの設定温度は24度。外の熱気などどこ吹く風の、完全なる要塞だ。 暗闇に浮かび上がるのは、トリプルディスプレイの青白い光だけ。 「……よし、座標確認。敵影なし」 陸斗はヘッドセットのマイクに向かって、冷静に指示を飛ばしていた。 画面の中では、彼が操るアバターが荒野を疾走している。 夏休み初日。彼が選んだのは、発売されたばかりのFPSゲームのランクマッチに朝から晩まで潜り続けることだった。 「右から来るぞ。ツーマンセルで抑えろ」 指先がキーボードの上を高速で舞う。 学校での彼は「おとなしい眼鏡キャラ」だが、このデジタル空間において彼は歴戦の司令塔であり、神エイムを持つスナイパーだ。 「……クリア」 勝利のファンファーレと共に、陸斗はヘッドセットをずらして、炭酸飲料のプルタブを開けた。 プシュッ、という音が静かな部屋に響く。 「ふぅ……。現実(リアル)の夏より、こっちの方が解像度が高いな」 強がりを言いながらも、彼はふとデスクの隅に置かれたカレンダーに目をやった。 明日の日付に、赤いペンで『海』と書き込まれている。 「……ま、たまには低解像度の太陽も悪くないか」 陸斗は少しだけ口角を上げ、再びモニターに向き直った。
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藤沢琴音の家からは、途切れることなくピアノの音が流れていた。 音楽教室のレッスン室。母が外出しているこの時間は、琴音だけの聖域だ。 エアコンの効いた涼しい部屋で、彼女は鍵盤に向かっていた。 学校の課題曲であるベートーヴェンや、コンクールの定番であるショパンの譜面は、閉じて脇に置いてある。 誰のためでもなく、自分のために弾く時間。彼女が選んだのは、ドビュッシーの『アラベスク第1番』だった。
琴音の指先が、鍵盤の上を滑らかに舞う。 感情を激しく叩きつけるようなロマン派の曲は、今の気分じゃない。 求めているのは、感情の押し付けではなく、ただそこにある「空気」や「光」の描写。 浮遊感のある和音と、水が流れるようなアルペジオ。 窓の外のうだるような暑さを遮断し、部屋の中を透明な水の粒子で満たしていくような、清冽な旋律。 (……音と音の境界線を溶かすように) ペダルを踏み込み、残響(レゾナンス)を重ねていく。 この「曖昧さ」こそが心地いい。 白黒つけられない、言葉にできない感情を、ただ音の響きとして空間に漂わせる。それが、琴音にとっての最高のデトックスだった。
一通り弾き終えると、琴音はふぅと息を吐き、ピアノの蓋を閉じた。 余韻が消えた部屋に、静寂が戻る。 サイドテーブルに置いてあった分厚いハードカバーの本を手に取った。海外の翻訳ミステリー小説だ。 紅茶を一口飲み、活字の世界へとダイブする。 静寂と音楽、そして知的な冒険。 誰にも邪魔されない、完璧にコントロールされた優雅な午後。 「……平和ね」 琴音は眼鏡の位置を直し、ページをめくった。 ふと、明日の海のことが頭をよぎる。 (日焼け止め、一番強いやつを買ったけれど……塗り直すタイミングあるかしら) 完璧主義な彼女の懸念は尽きないが、その表情はどこか楽しげだった。
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一方、桜庭陽菜は、じりじりと焼けるような日差しの下にいた。 「あつぅ……」 額の汗を手の甲で拭いながら、彼女はホースのノズルを握っていた。 夏休みでも、植物たちに休みはない。ボタニカル・デザイン部の当番として、花壇の水やりに来ていたのだ。 水しぶきが虹を作り、乾いた土が水を吸い込んで黒く色を変えていく。 「みんな、喉乾いてたよね。いっぱい飲んでね」 植物たちに話しかけながら水を撒く。 水を含んだ葉が、生き生きと輝くのを見るのは好きだ。けれど、さすがにこの暑さは堪える。 「ふぅ、これでよし」 作業を終え、水道で顔を洗う。冷たい水が火照った肌に気持ちいい。
家に帰ると、誰もいないリビングの電話が鳴っていた。 「はい、もしもし」 『おう、陽菜か? 元気してるか?』 受話器の向こうから聞こえてきたのは、東京の大学に通う兄の声だった。 「あ、お兄ちゃん! 久しぶり」 『夏休み入ったんだろ? どうだ、部活ばっかやってんのか?』 「ううん、今日は当番だったけど。……あ、明日ね、みんなで海に行くんだよ」 陽菜の声が自然と弾む。 『へぇ、海か。いいな青春してて。誰と? いつものメンバー?』 「うん。悠真くんとか、葵とか、みんなで」 『悠真くんか。……あいつも元気?』 「うん、元気だよ。相変わらず写真撮ってる」 『そっかそっか。まあ、気をつけて行ってこいよ。お土産よろしくな』 「もう、お兄ちゃんったら。お盆には帰ってくるの?」 『ああ、バイトのシフト調整して帰るつもり。母さんにもよろしく言っといて』
電話を切った後、陽菜は受話器を見つめて少し笑った。 兄の声を聞いて、夏休みという非日常感がより一層増した気がする。 「海、かぁ……」 陽菜は自分の部屋に戻り、ベッドの上に広げてある新しい水着を眺めた。 昨日、葵と琴音と一緒に選んだ、淡い水色のワンピースタイプ。少しフリルがついていて、自分には可愛すぎるかなと迷ったけれど、葵が「絶対似合う!」と太鼓判を押してくれたものだ。 (悠真くん、なんて言うかな……) 鏡の前で水着を体に当ててみる。 ドキドキとワクワクが入り混じった、不思議な感覚。 明日、あの人がカメラを向けた時、私は自然に笑えるだろうか。
窓を開けると、夕暮れの風が入ってきた。 蝉の声は蜩(ヒグラシ)のカナカナという声に変わり、空は淡いピンク色に染まっている。 それぞれの場所で、それぞれの時間を過ごした一日が終わろうとしている。 バラバラに過ごしていても、みんな同じ空の下で、同じ明日を待っている。
スマホが震えた。グループチャットに、健太からのメッセージが入る。 『明日は朝8時、駅前集合な! 遅刻厳禁!!』 それに続いて、スタンプが次々と押される。 陸斗の『了解』、葵の『楽しみ!』、琴音の『承知しました』。 陽菜も『はーい!』と打ち込み、最後に悠真の『晴れるといいな』というメッセージを見て、胸の奥が温かくなるのを感じた。
「晴れるよ、絶対」 陽菜は空に向かって呟いた。 地方都市の短い夏。その中で一番輝く一日が、もうすぐ始まろうとしていた。
(第15話へつづく)