地方都市のメロディ 〜桜舞う通学路〜
第9話:川辺の夕涼み、小さな寂しさ
夏至が近づき、陽が落ちるのが随分と遅くなった。 部活動終了のチャイムが鳴り、生徒たちがそれぞれの家路についても、空はまだ明るさを残している。 しかし、空気には湿った重さがあり、遠くの山に入道雲の残骸が浮かんでいるのが、本格的な夏の到来を告げていた。
蒼井悠真は、商店街とは反対方向、川の上流に向かって自転車を走らせていた。 今日は写真部の活動で、「夕暮れの光の変化」というテーマで撮影をしていたのだが、もう少しだけ粘りたくなって、一人で寄り道を決めたのだ。 川沿いのサイクリングロードは、夕方の散歩をする人や、ランニングをする高校生たちが行き交っている。 川面を渡る風は、昼間の熱気を帯びつつも、水を含んで少しだけ涼しい。
(……いい色だな) 悠真は自転車を止め、西の空を見上げた。 燃えるようなオレンジ色から、深く静かな群青色へと溶け込んでいくグラデーション。その境目に、一番星が白く小さく輝いている。 彼はカメラを取り出し、その一瞬の色彩を切り取った。
ふと、ファインダーから目を離し、土手の下に視線を落とした時だった。 背の高い雑草が茂る草むらの中に、ぽつんと座り込んでいる人影があった。 膝を抱え、ぼんやりと川の流れを見つめている。 見慣れたショートヘア。そして、少し着崩した制服。 「……葵ちゃん?」 悠真は思わず声を漏らした。 いつもなら、この時間は「かぐらや」でエプロンをつけて、元気に接客をしているはずの神楽坂葵だ。 彼女がこんなところで、しかも一人で座っているなんて珍しい。 悠真は自転車を降り、土手の斜面を降りていった。
「葵ちゃん」 声をかけると、彼女はビクリと肩を震わせ、弾かれたように振り返った。 「えっ……あ、悠真?」 その表情は、いつもの太陽のような笑顔ではなく、どこか心細げで、無防備なものだった。 「どうしたの? お店は?」 悠真が隣に腰を下ろすと、葵は「あはは」と力なく笑って、視線を再び川に戻した。 「うん……ちょっとね。お使い頼まれて、スーパーまで醤油買いに来たんだけど。なんか、風が気持ちいいなーって思ったら、動けなくなっちゃって」 彼女の足元には、業務用の大きな醤油のペットボトルが入ったビニール袋が置かれている。 「サボりじゃないよ? ちょっと休憩」 葵は言い訳するように付け加えたが、その声にはいつもの張りがなかった。
二人の間を、川のせせらぎと、草むらから聞こえ始めた虫の声が埋める。 対岸の街灯に、ポツリポツリと明かりが灯り始めた。
「……ねえ、悠真」 しばらくの沈黙の後、葵がぽつりと口を開いた。 「ん?」 「私さ、将来のこととか、全然考えてないように見えるでしょ」 「え? いや、そんなこと……」 否定しようとしたが、葵は自嘲気味に笑って言葉を継いだ。 「いいのいいの。自分でもそう思うし。みんな、私のことは『かぐらやの看板娘』で、『将来はお店を継ぐんでしょ』って思ってる」 悠真は言葉に詰まった。確かに、自分を含め周囲の誰もが、無意識にそう思っていたかもしれない。 「お店は好きだよ。お客さんも好きだし、お父さんのラーメンも、お母さんの笑顔も大好き。……でもね」 葵は膝に顔を埋めるようにして、小さく呟いた。 「時々、すごく怖くなるの。私の人生、このままずっと『かぐらやの葵ちゃん』で終わっちゃうのかなって。私には、もっと他にやりたいことがあるのかな、それとも、私にはこれしかないのかなって」
彼女の家は共働きで、しかも人気店だ。両親は朝から晩まで仕込みと営業に追われている。 葵は幼い頃から、「いい子」でいることが当たり前だった。忙しい両親の手を煩わせないように、寂しくても我慢して、店を手伝い、客の前では笑顔で振る舞う。 その明るさは、彼女の持ち前の性格でもあるけれど、同時に彼女が身につけた「鎧」なのかもしれないと、悠真は初めて感じた。
「……たまにね、思うんだ」 葵の声が微かに震えた。 「私も、普通に家に帰って、『ただいま』って言ったら『おかえり』ってご飯が出てきて……テレビ見ながらゴロゴロしたり、お母さんに甘えたりしたいなって。……バカだよね、もう中二なのに」 彼女は顔を上げ、強引に口角を上げて笑ってみせた。けれど、その瞳は夕闇の中で潤んで見えた。
悠真は、カメラを握りしめた。 ファインダー越しには見えない、彼女の心の奥にある小さな寂しさ。 普段の底抜けに明るい彼女からは想像もつかない、等身大の弱さ。 なんて声をかければいいのか、悠真にはわからなかった。「頑張れ」は違うし、「継がなくてもいい」と言うのも無責任だ。 だから、悠真はただ、感じたままを口にした。
「……バカじゃないよ」 「え?」 「全然、バカじゃない。寂しいって思うのも、将来に悩むのも、当たり前だよ」 悠真は川面を見つめながら言った。 「俺だって、写真は好きだけど、これを仕事にできるかなんてわからない。陸斗だってプロゲーマー目指してるけど、不安がないわけじゃないと思う。……みんな、迷ってるよ」 そして、悠真は葵の方を向いた。 「それに、葵ちゃんが『かぐらや』にいなかったら、俺たち寂しいよ。でもそれは、葵ちゃんが店を継ぐからじゃなくて、葵ちゃんがそこにいて、笑ってくれてるからだよ。……だから、葵ちゃんが何を選んでも、葵ちゃんは葵ちゃんだと思う」
葵は、きょとんとして悠真を見つめ、やがて、ふっと息を吐き出して笑った。 今度の笑顔は、作り笑いではなく、いつもの彼女らしい温かいものだった。 「……そっか。悠真って、たまに核心突くよね」 「そうかな?」 「うん。……ありがとう。なんか、スッキリした」 葵は勢いよく立ち上がり、スカートの草を払った。 「よし! 帰らなきゃ! お父さんに『醤油まだかー!』って怒られちゃう」 彼女は重たいビニール袋を軽々と持ち上げた。その背中からは、先ほどまでの重たい空気が消えていた。
「悠真、送ってく?」 「いや、自転車あるから」 「そっか。じゃあ、また明日ね! ……あ、今の話、みんなには内緒だよ?」 葵は人差し指を口元に当ててウインクした。 「わかってるよ」 「えへへ。じゃあね!」 葵は土手を駆け上がり、商店街の方へと走っていった。遠ざかる背中が、街灯の光に照らされて小さくなる。
悠真は、彼女が見えなくなるまで見送ってから、再びカメラを構えた。 被写体はもういない。けれど、この川辺の夕暮れの空気、虫の声、そして少し切ない余韻を、記憶に焼き付けるようにシャッターを切った。 カシャッ。
画像モニターには、誰もいない川辺の風景が映っている。 けれど、悠真には見えていた。そこに確かにあった、彼女の小さな本音と、共有した時間の温もりが。 「……さて、俺も帰るか」 悠真は自転車を起こした。 空は完全に夜の色に変わり、星々が瞬き始めていた。 「かぐらや」の前を通ったら、きっといつものように元気な声が聞こえてくるだろう。 その声が、少しだけ愛おしく感じられるような気がして、悠真はペダルを漕ぐ足に力を込めた。
(第10話へつづく)