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第7話:図書館の片隅で、琴音の小さな冒険

地方都市のメロディ 〜桜舞う通学路〜

第7話:図書館の片隅で、琴音の小さな冒険

放課後の図書室には、特有の時間が流れている。 廊下を走る生徒たちの喧騒も、グラウンドから響く部活動の掛け声も、重たい木の扉を一枚隔てると、まるで遠い世界の出来事のようにくぐもって聞こえる。 ここにあるのは、古い紙の匂いと、インクの匂い。そして、埃が西日の中で静かに踊る、止まったような時間だ。

藤沢琴音は、図書室の奥、理数系書籍の棚の近くにある窓際の席を陣取っていた。 今日は合唱部の活動が休みだ。真っ直ぐ家に帰ってピアノの練習をするのもいいが、今日はなんとなく、この静寂に身を浸したい気分だった。 広げたノートには、数式が整然と並んでいる。 琴音は数学が好きだ。音楽とは違って、そこには揺るぎない「正解」があり、感情の入り込む余地がないからだ。 (……よし、この証明はこれで完了) シャーペンを置き、琴音は小さく息をついた。 音楽は、難しい。 母が愛し、自分も憧れる坂本龍一の音楽――それは、幼い頃から叩き込まれたメソッドや楽典という「ルール」がありながら、そこから必死に逃れようともがくような音だ。壊したいのに、壊しきれない。デタラメになりたいのに、どうしても美しくなってしまう。その「もどかしさ」と、理屈を超えた「音色」そのものの美しさ。 それに比べれば、数学の世界はなんてシンプルで、安らぐのだろう。

ふと窓の外を見ると、校庭ではサッカー部が走り回っている。その活気ある風景を、音のない水槽の中から眺めているような感覚。それは琴音にとって、心地よい逃避場所だった。

「……あれ、琴音ちゃん?」

不意に、静寂を破らない程度の、控えめな声が降ってきた。 琴音が顔を上げると、書架の影から蒼井悠真が顔を覗かせていた。首にはいつものカメラではなく、図書室の貸出カードがぶら下がっている。 「あら、悠真くん。珍しいわね、ここで会うなんて」 琴音は少し驚いて眼鏡の位置を直した。悠真は写真部の活動で外にいるイメージが強かったからだ。 「うん。ちょっと探したい資料があって」 悠真は琴音の前の席の椅子を引くと、「いいかな?」と目で問いかけた。琴音が頷くと、彼は静かに腰を下ろした。 「琴音ちゃんこそ、勉強? 偉いなぁ」 「偉くなんてないわ。家だと、母の生徒さんのピアノが聞こえてきて……たまに、音が『整理されすぎてて』疲れるの」 「整理されすぎてて?」 悠真が不思議そうに首を傾げる。 「ええ。……なんでもないわ。私のわがまま」 琴音は言葉を濁した。練習曲のような「正解のある音楽」に、時々息苦しさを感じてしまうなんて、中学生が言うには生意気すぎる気がしたからだ。

「悠真くんは何を探しに?」 「あ、これ。古い写真集とか、画集のコーナーを見てたんだ」 悠真が手元に置いたのは、フランスの古い写真家の作品集と、印象派の画集だった。 「構図の勉強をしたくてさ。僕の写真はまだ、なんとなく撮ってるだけだから。昔のすごい人たちが、どうやって光を捉えてたのかなって」 「へえ……見てもいい?」 「もちろん」

二人は並んで、画集のページをめくった。 『睡蓮』の絵が現れる。輪郭線は曖昧で、光の粒と色彩が混ざり合い、水面の揺らぎを表現している。 「……不思議ね」 琴音が呟くと、悠真が頷いた。 「うん。はっきり描いてないのに、そこにある空気とか、温度まで伝わってくる」 「……『音色』みたい」 「音色?」 琴音はページの上を指でなぞった。 「音楽って、楽譜というルールの上で成り立つものだけど……本当に心に響くのは、そのルールから少しはみ出したところにある『響き』だったりするの。ノイズとか、余韻とか。この絵の、色の滲み方みたいに」 それは、母がよく語っていた受け売りでもあり、琴音自身がピアノに向かう時に常に感じているジレンマでもあった。 悠真はハッとしたように目を見開いた。 「なるほど……。はっきり写ってないものが、一番大事ってことか」 「あ……ごめん、ちょっと抽象的すぎたかしら」 琴音は恥ずかしくなって俯いた。 「ううん、すごく面白いよ。写真もさ、ピントが合ってるだけがいい写真じゃないから。琴音ちゃんの言う『音色』って感覚、なんとなくわかる気がする」

悠真は真剣な眼差しで画集を見つめ、それから琴音を見た。 その距離が、普段、グループのみんなでいる時よりもずっと近いことに、琴音はふと気づいた。 窓から差し込む夕日が、悠真の横顔を照らしている。彼の瞳の中に、画集の色彩が反射しているのが見える。

「……あ、この写真」 悠真がページをめくり、一枚のモノクロ写真で手を止めた。 雨上がりのパリの街角。濡れた石畳の質感が、インクの濃淡だけで表現されている。 「……僕もいつか、こんな風に、空気そのものを切り取れるようになりたいな」 悠真の言葉には、静かだが確かな熱がこもっていた。

琴音は、眼鏡の奥で悠真を見つめた。 普段はみんなの後ろでニコニコしている彼だが、そのファインダーを通して見ている世界は、琴音が求めている「理想の音色」に近いのかもしれない。 理屈やルールで固められた世界ではなく、その隙間にある、言葉にできない美しさ。

「撮れるわよ、悠真くんなら」 琴音は、自分でも驚くほど素直な言葉を口にしていた。 「え?」 「悠真くんの写真は……なんていうか、耳触りがいいの。あ、違うわね、目触りがいい、かしら。無理に構図を決めつけようとしてない、自然な『ノイズ』が心地いいのよ」 それは、彼女なりの最大限の賛辞だった。 悠真は少し照れくさそうに首を掻いた。 「……ありがとう。琴音ちゃんにそう言われると、なんか自信つくよ」

キーンコーンカーンコーン。 下校時刻を知らせるチャイムが、遠くの世界から響いてきた。 魔法が解ける合図だ。

「あ、もうこんな時間」 悠真が時計を見る。 「行かなきゃ。石川さんのコンビニでノート買って帰るんだった」 「私はもう少しここを見てから帰るわ。この証明問題、あと少しで解けそうなの」 「そっか。数学、頑張ってね」 悠真は本を片付けると、席を立った。 「バイバイ、琴音ちゃん」 「ええ、また明日」

悠真の背中が書架の向こうに消え、図書室の扉が閉まる音がした。 再び、静寂が戻ってくる。 琴音は、悠真が座っていた空っぽの椅子を見つめた。

「……数学の方が、楽なんだけどな」 琴音は小さく独りごちて、シャーペンを握り直した。 数式には、必ず一つの正解がある。 けれど、音楽にも、写真にも、そして人の心にも、明確な正解なんてない。 その割り切れなさが、今は少しだけ愛おしく感じられた。

琴音はずり落ちてもいない眼鏡を、指先でクイッと押し上げた。 西日が長く伸びて、彼女の影を壁に映し出す。 その影は、ほんの少しだけ、大人びて見えた。

(第8話へつづく)