地方都市のメロディ 〜桜舞う通学路〜
第6話:雨上がりの午後、そして繋がり
昼過ぎから降り出した通り雨は、放課後には嘘のように上がっていた。 まだ雲の切れ間は少ないものの、西の空からは鋭い陽光が差し込み、濡れたアスファルトを鏡のように輝かせている。
「あーあ、部活休みになっちゃった」 昇降口で上履きを履き替えながら、桜庭陽菜は小さくため息をついた。 ボタニカル・デザイン部の活動は屋外がメインだ。土がぬかるんでしまっては作業ができないため、今日は早々に解散となったのだ。 「まあ、たまには早く帰るのもいいんじゃない?」 そう言いながら隣の下駄箱を開けたのは、蒼井悠真だった。 「あ、悠真くん。写真部は?」 「今日は個人活動の日だから、俺もこれから帰って街でも撮ろうかなって」 悠真は首から下げたカメラを軽く持ち上げて見せた。 「そっか。……じゃあ、一緒に帰ろっか」 「うん」
他のメンバーは、水泳部の健太は雨でも室内トレーニング、合唱部の琴音はコンクールに向けてのパート練習、葵は店の仕込み、陸斗は部室に篭るとのことで、今日は珍しく二人きりの下校となった。
校舎を出ると、湿気を帯びた空気が肌にまとわりつく。しかし、それは決して不快なものではなく、雨上がりの草いきれと混ざり合って、どこか懐かしい匂いがした。 「……土の匂い、すごいね」 陽菜が鼻をすんと鳴らして言った。 「『ペトリコール』って言うんだっけ? 雨上がりの匂い」 「そうそう。植物の油分とか、土の中のバクテリアが出す匂いなんだって」 陽菜は嬉しそうに知識を披露する。彼女が植物や自然の話をする時、その瞳がきらきらと輝くのを悠真は知っていた。
二人は並んで、水たまりを避けながら歩いた。 道路脇の植え込みでは、紫陽花が雨露を纏って重たげに頭を垂れている。葉の上で水滴がレンズのように光を集め、キラリと輝いた。 悠真は立ち止まり、カメラを構える。 「……ちょっと待ってて」 ファインダーを覗き込み、紫陽花の花弁に乗った一粒の水滴にピントを合わせる。 カシャッ。 静かなシャッター音が、雨上がりの街に響いた。
「悠真くんの写真って、なんか優しいよね」 歩き出しながら、陽菜が言った。 「そうかな?」 「うん。景色が息をしてるみたいに見えるの。……私、悠真くんが引っ越してきた時のこと、今でも覚えてるよ」 突然の話題転換に、悠真は少し驚いて陽菜の顔を見た。 「え? 小三の時の?」 「うん。転校初日の放課後、公園のジャングルジムの上で、ずっと遠くを見てたでしょ」 悠真は苦笑いした。 「ああ……あの時は、前の街の友達のこと思い出して、ちょっと寂しかったんだと思う」 「私ね、それ見て『あの子、迷子なのかな』って思ったの」 陽菜は悪戯っぽく笑った。 「でも、健太くんが『おい! 野球しようぜ!』って無理やり連れてっちゃって。悠真くん、びっくりしてたけど、そのあとすごく楽しそうに笑ってたから、よかったなって」
二人は、通学路の途中にある小さな児童公園のベンチに腰を下ろした。 濡れていない部分を選んで座る。目の前には、陽菜が言ったジャングルジムが、西日を浴びて長い影を落としていた。
「あの時、陽菜もいたんだ」 「うん。ブランコに乗ってたよ。……悠真くん、すぐにみんなと仲良くなって、私とも普通に話してくれるようになって。それがすごく嬉しかった」 陽菜は足元の小石を爪先でつついた。 「私、あんまり自分から話しかけるの得意じゃなかったから。悠真くんがいてくれて、グループのみんなとの輪が、もっとまあるくなった気がするの」
悠真は、ファインダー越しではない、生の陽菜の横顔を見つめた。 風が吹き、濡れた髪が彼女の頬にかかる。陽菜はそれを無造作に耳にかけた。 「俺の方こそだよ。健太の勢いに助けられたけど、陽菜がいつもニコニコして見ててくれたから、安心できたんだ」 地方公務員の家庭で育ち、転校を経験してきた悠真にとって、この街で得た「幼なじみ」という関係は、何よりも代えがたい安らぎの場所だった。そして、その中心にはいつも、陽菜の穏やかな優しさがあった。
「……ねえ、悠真くん」 「ん?」 「これからも、ずっとこの街にいられたらいいのにね」 陽菜の言葉は、単なる願望のようでもあり、来るべき未来への微かな不安のようでもあった。 中学二年生。子供と大人の狭間で、少しずつ「進路」や「将来」という言葉が現実味を帯びてくる時期。 「……そうだな」 悠真は短く答えた。 「でも、たとえ離れたとしても、写真は残るよ。この街の空気も、今のこの時間も」 悠真がカメラを撫でながら言うと、陽菜はふわりと笑った。 「そうだね。悠真くんの写真は、タイムカプセルみたいだもんね」
その時、雲の切れ間から強烈な夕日が差し込み、二人の目の前に大きな虹がかかった。 「あっ! 虹!」 陽菜が空を指差して立ち上がる。 「すげぇ……久しぶりに見た」 悠真も慌ててカメラを構える。 七色のアーチが、雨上がりの灰色の空を鮮やかに跨いでいる。 「悠真くん、撮って! 消えないうちに!」 「わかってる!」 悠真は夢中でシャッターを切った。虹を、そして虹を見上げてはしゃぐ陽菜の後ろ姿を。
ひとしきり写真を撮り終えると、虹は儚く空に溶けて消えていった。 「……綺麗だったね」 「ああ。いいのが撮れたと思う」 二人は顔を見合わせて笑った。 雨上がりの湿った空気が、いつの間にか清々しい夕暮れの風に変わっている。 「そろそろ帰ろっか。お母さん心配するし」 「うん。送ってくよ」 「え、いいよ、すぐそこだし」 「いいから。……虹のお礼」 悠真が言うと、陽菜は少しだけ頬を赤らめて、「ありがと」と小さく頷いた。
二人の影が、夕暮れの道に長く伸びて、一つに重なったり離れたりしながら進んでいく。 言葉にしなくても通じ合う、心地よい沈黙。 雨が洗い流した街は、いつもより少しだけ鮮明に、二人の瞳に映っていた。 ただの帰り道。けれど、それは二人にとって、アルバムの1ページに栞を挟むような、大切な記憶の断片となった。
(第7話へつづく)