地方都市のメロディ 〜桜舞う通学路〜
第2話:それぞれの場所、それぞれの春
放課後を告げるキーンコーンカーンコーンというチャイムの音が、校舎全体に響き渡った。それは、一日の授業という拘束から解放される合図であり、生徒たちにとっては、自分たちの本当の時間が始まるファンファーレでもあった。 教室のあちこちで椅子の引く音や、カバンをまとめる音が重なり合い、ざわめきが一気に大きくなる。
「じゃあね陽菜、また明日!」 「うん、バイバイ」 クラスメイトに手を振りながら、桜庭陽菜は自分の鞄に園芸用のグローブを詰め込んだ。今日から部活動も本格的に再開だ。陽菜が所属するのは「ボタニカル・デザイン部」。名前こそ少しおしゃれだが、基本的には植物を育て、校内を花や緑で飾る活動がメインだ。
昇降口を出て、渡り廊下を抜けた先にある温室の裏手が、部員たちの主な活動場所だった。春の柔らかな日差しが降り注ぐ花壇には、パンジーやビオラが色とりどりの顔を覗かせている。 「よし、今日も頑張ろう」 陽菜は小さく呟いて、髪をゴムで束ねた。土の入った袋を開けると、湿った腐葉土の独特な匂いが鼻をくすぐる。都会の人には敬遠されるかもしれないけれど、陽菜はこの匂いが好きだった。命を育む、力強くて懐かしい匂い。 スコップを握り、固くなった土を丁寧に掘り返していく。土の中からミミズが顔を出して慌てて潜っていくのを見て、陽菜はふふっと笑った。 「ごめんね、びっくりさせちゃって」 指先で土の感触を確かめながら、新しい苗を植え付けていく。根を傷つけないように優しく、まるで赤ちゃんの指を握るように。 風が吹くと、近くの金木犀の葉がサワサワと擦れ合う音がした。遠くのグラウンドからは、野球部の掛け声や、バットがボールを弾く乾いた金属音が聞こえてくる。それらの音がBGMとなって、陽菜の作業を心地よく彩っていた。
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その頃、校舎の三階にある音楽室からは、重厚なピアノの旋律が流れていた。 藤沢琴音は、グランドピアノの前に背筋を伸ばして座っていた。彼女が所属する合唱部は、今度の新入生歓迎会で披露する曲の練習中だ。 「――そこ、アルトの入りが少し遅れてる。もっとブレスを意識して」 演奏を止め、琴音は楽譜を見ずに指摘した。眼鏡の奥の瞳は真剣そのもので、普段の物静かな彼女からは想像できないほどの厳しさを帯びている。 「ご、ごめん藤沢さん」 「謝らなくていいわ。ただ、歌詞の意味を考えて。ここは春の喜びを歌っているのよ。もっと弾むように、光が差し込むイメージで」 琴音はそう言うと、ふぅ、と小さく息を吐き、再び鍵盤に指を置いた。
部員たちが楽譜を確認しているわずかな隙間、琴音の指が無意識に和音を探った。 奏でられたのは、合唱曲ではない。静謐で、どこか水面が揺らぐような透明感を持った旋律――坂本龍一の『Aqua』だった。 誰もが知る『戦場のメリークリスマス』ではない。琴音の母は、坂本龍一の音楽をこよなく愛するコアなファンであり、特にアルバム『BTTB』に収録されたこの曲を、「音と音の間の静寂さえも美しい」と評して愛奏していた。 幼い頃からその背中を見て育った琴音にとっても、この曲は特別な意味を持つ。派手な技巧ではなく、一音一音の響きを慈しむようなこの曲こそが、彼女の美学の原点だった。 (もっと澄んだ音。濁りのない、水のような音で……) 自分の世界に入り込み、理想の音を追い求めて鍵盤に顔を近づける。その拍子に、鼻に乗っていた眼鏡がずり落ちそうになった。 「ぷっ」 部員の一人が小さく吹き出した。 琴音はハッとして我に返り、『Aqua』の余韻を断ち切るように慌てて人差し指で眼鏡を押し上げた。 「な、何がおかしいのよ」 「ううん、藤沢さん、ピアノ弾いてる時すごい雰囲気あるのに、たまに眼鏡ずれるのが可愛くて」 「……茶化さないで」 琴音は耳まで赤くして、咳払いをした。「さあ、もう一度頭から!」
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一方、本校舎から少し離れた特別棟の一角にある、薄暗い部室。 「デジタルコンテンツ研究部」、通称デジコン部の部室には、いつものように電子音がピコピコと響いていた。 部長であり、実質的な活動部員である秋山陸斗は、複数のモニターに囲まれてキーボードを叩いていた。画面に映し出されているのは、複雑なプログラムのコードと、彼が現在攻略中の高難易度ゲームのプレイ画面だ。 「よっしゃあ! 今のコンボ見たか陸斗!?」 背後で大声を上げたのは、水泳部の練習を終えて遊びに来た浜田健太だ。彼は部室のソファを占領し、携帯ゲーム機に熱中している。水泳部活発化の時期とはいえ、今日は早上がりの日らしい。 「うるさいぞ健太……ここはゲーセンじゃないんだ」 陸斗はモニターから目を離さずに、淡々と言った。 「いいじゃんかよー。それにしても、このボス強すぎだろ。陸斗ならどう倒す?」 「……そのボスの攻撃パターンはHPが半分を切ると変化する。予備動作のあとに右へ回避すれば隙ができるはずだ」 「マジか! サンキュー!」 健太は再び画面に食らいつく。 「おーい、お邪魔しまーす」 そこへ、カメラを首から下げた蒼井悠真が入ってきた。 「お、悠真! 写真部の活動は?」 「一通り終わったよ。今日は校庭の桜を撮ってたんだ。陸斗、また健太が入り浸ってるのか?」 悠真は苦笑しながら、空いているパイプ椅子に腰を下ろした。 「ああ……もはや準部員だな」 陸斗はため息をつきつつも、その表情はどこか柔らかい。一人で黙々と作業するのも嫌いではないが、こうして友人たちが集まってくるこの空間が、陸斗にとっては心地よい居場所だった。 「そういえば陸斗、また新しい大会出るんだって?」 悠真が尋ねると、陸斗はキーボードを打つ手を止めた。 「……うん。来月のオンライン予選。今回はプロチームのスカウトも見てるらしいから」 「すげぇな! プロゲーマーかぁ、夢があるよなぁ」 健太が目を輝かせる。 「まだ夢の段階だよ。でも……絶対に勝ちたい」 陸斗の眼鏡の奥で、静かな闘志が燃えるのを、悠真はファインダー越しに見るようにしっかりと捉えていた。
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夕暮れ時、商店街にある「かぐらや」には、食欲をそそる匂いが漂っていた。 鶏ガラと魚介の出汁が効いたラーメンのスープの香りと、生姜焼きの香ばしい匂い。そして、なぜか微かに香るソースの匂い。 「いらっしゃいませー! カウンター席へどうぞ!」 エプロン姿の神楽坂葵が、元気な声で客を迎えていた。学校から帰ってすぐに店の手伝いだ。 店内は、近所のおじいちゃんやおばあちゃん、仕事帰りの会社員たちで賑わっている。 この店の特徴は、なんといっても各テーブル席に設置された立派な「鉄板」だ。かつて父が「熱々のハンバーグを提供したい」という情熱で導入したものの、客の「もんじゃ焼けないの?」「焼きそば食べたい」という要望に応えるうちに、今では何でも焼ける万能鉄板と化している。喫茶店風の内装に、ラーメンの湯気と鉄板の熱気が同居する、まさにカオスで温かい空間だ。
「葵ちゃん、ラーメン定食ちょうだい」 「はーい! 少々お待ちくださいね!」 葵は手際よくオーダーを通し、厨房にいる両親に声をかける。「お父さん、ラー定一丁!」 「おうよ!」 父の威勢のいい声と、中華鍋を振る音が響く。
カランコロン、とドアベルが鳴り、陽菜と琴音が店に入ってきた。 「あ、葵! お疲れ様ー」 「いらっしゃーい! 二人とも部活終わり?」 葵がお冷を持って駆け寄る。 「うん、お腹空いちゃって。いつものラーメンでいい?」 陽菜がメニューも見ずに言うと、琴音も頷いた。「私も。あ、メンマ多めでお願いできるかしら」 「了解! ラーメン二つ、一つはメンマ増しね!」
二人が鉄板のあるテーブル席に着くと、遅れて悠真と健太、陸斗もやってきた。結局、いつものメンバーが大集合だ。 「おっ、みんな揃ったな! 俺、チャーシュー麺大盛り!」 健太の注文に続き、それぞれが思い思いのメニューを頼む。 賑やかな笑い声が店内に広がる中、葵はふと、カウンターの隅に目をやった。 そこには、一人の女子生徒が参考書を広げて座っていた。中学三年生の佐竹涼子だ。真面目そうな眼鏡をかけ、ラーメンを啜りながらも、視線はノートに向けられている。 「涼子先輩、お冷のおかわりどうですか?」 葵がポットを持って声をかけると、涼子は顔を上げて、ほっとしたような笑みを浮かべた。 「あ、ありがとう葵ちゃん。ごめんね、長居しちゃって」 「全然いいんですよ! むしろお店が賑やかで集中できなくないですか?」 「ううん、これくらいの雑音がある方が、逆に落ち着くの。家だと静かすぎて煮詰まっちゃうから」 涼子はそう言って、シャーペンを回した。「ここはラーメンも美味しいし、葵ちゃんの笑顔を見ると元気出るしね」 「えへへ、そう言ってもらえると嬉しいです」 葵は照れくさそうに笑った。涼子のテーブルには、難しそうな数学の問題集と、半分ほど減ったノートが置かれている。 (受験生かぁ……大変そうだなぁ) 葵は心の中でそう思いながら、涼子の真剣な横顔を見つめた。一つ上の学年というだけで、なんだかとても大人びて見える。
「おーい葵! ラーメンまだー?」 健太の声に呼び戻され、葵は「はいはーい! 今持っていくよ!」と声を張り上げた。 厨房から湯気の立つラーメンを受け取り、仲間たちのテーブルへ運ぶ。 「お待たせ! 特製かぐらやラーメンだよ!」 「うわー、うまそう!」 陽菜が顔をほころばせる。 「いただきます!」 六人の声が重なり、それぞれの春の夜が更けていく。鉄板は今はただのテーブル代わりだが、これが熱を帯びて賑わう日もそう遠くないだろう。 窓の外はすっかり暗くなり、街灯に照らされた夜桜が、静かに花びらを散らしていた。 特別なことは何も起きない。けれど、それぞれがそれぞれの場所で、自分の時間を生きている。その愛おしい日常の積み重ねが、彼らの青春を形作っていた。
陽菜はラーメンを啜りながら、ふと視線を感じて顔を上げた。向かいに座る悠真が、カメラの手入れをしながら、ちらりとこちらを見ていた。 「……何? 顔にナルトついてる?」 「いや、ついてないよ。……美味しそうに食べるなと思って」 悠真が優しく微笑むので、陽菜は急に恥ずかしくなって、どんぶりに顔を埋めた。 その様子を見ていた琴音が、眼鏡をクイッと上げながら、小さくため息をつくように微笑んだのを、誰も気づかなかった。
(第3話へつづく)