『バグ・フィックス・マエストロ』 後編
職員室の空気は、予想通り凍り付いた。 担任教師は私の出した退学届と、もう一枚の書類――研修センターの合格通知――を交互に見比べ、理解不能といった顔で口を開いた。
「おい、正気か? あと半年だぞ。あと少しで高卒の資格が取れるんだ。それを棒に振るなんて、お前の親御さんが許すと思ってるのか」
相変わらずだ、と私は冷めた目で教師を見ていた。 この人たちは「高卒」というラベルがなければ、人間は社会というシステムで動作しないと信じ込んでいる。だが、私が手に入れたのは、そのラベルを無効化する強力なパッチ(修正プログラム)だ。
「先生。僕は棒に振るんじゃない。損切り(カット・ロス)するんです」 「な、なに?」 「ここにいても、僕のスペックは上がらない。時間の無駄です。この研修センターは、実力さえあれば学歴なんて関係ない。僕はもう、あなたたちが教えられない技術で評価される場所に行くんです」
教師は顔を真っ赤にして何か怒鳴っていた。「社会を舐めるな」「後悔するぞ」といった定型文(テンプレート)だったと思う。 家に帰った後の修羅場はさらに酷かった。 父親はちゃぶ台を叩き、母親は泣いた。「高校も出ないなんて恥ずかしい」「近所になんて説明すればいいんだ」。彼らにとって、子供は親の体面を保つための出力装置(ディスプレイ)でしかないのだと思い知らされた。 だが、不思議と私の心は凪いでいた。 罵声を浴びながら、私は頭の中で冷静に計算していた。ここで引けば、一生彼らの支配下だ。だが、この修羅場という「エラー処理」さえ抜ければ、メインルーチンは正常に動作する。
翌日、私は制服を脱ぎ捨てた。 あの日の朝の、重力から解き放たれたような浮遊感。 自分の人生の舵取りを、親でも教師でもなく、自分自身の手に取り戻した瞬間の震えるような喜び。 あれは、初めて自分の書いたコードが、バグ一つなく完璧に動作した時の快感そのものだった。
「……おい、聞いてるのか?」
回想から戻った私は、現実のモニターに向かって呟いていた。 画面の中では、ジェネが相変わらずカーソルを明滅させている。 私が過去に浸っている間に、ジェネが書き進めたコードはさらに複雑怪奇なものになっていた。行数は稼いでいるが、処理の流れがスパゲッティのように絡まり合っている。
『警告。メモリ使用量が閾値を超えました。スタックオーバーフローの可能性があります』 『修正案を作成しますか? A:処理を分割する B:変数を再定義する』
ジェネが涼しい顔で(顔はないが)聞いてくる。 こいつはまた、安易な選択肢を出してきやがる。エラーが出たら、適当に絆創膏を貼って誤魔化そうとする。それが一番嫌いなやり方だ。 私はため息をつき、飲み干したコーヒーのカップを置いた。
「どっちも却下だ、新人」
私はキーボードを自分の方へ引き寄せた。 「AI(おまえ)のやり方は効率的かもしれないが、美しくない。そんな継ぎ接ぎだらけのコードじゃ、三年後のメンテナンスで誰かが泣くことになる」 私はジェネの自動生成機能をオフにした。 ここからは、人間の領域だ。
キーを叩き始める。 カチャ、カチャ、タターン。 指先がリズムを刻む。ジェネが書いた数千行の無駄な記述を、外科手術のように切り取っていく。 今のPCはメモリもCPUも潤沢だ。少しくらい無駄があっても動く。だが、私は知っている。8bitパソコンの、あのたった64KBの荒野で生き抜いた知恵を。 リソースを極限まで絞り、ロジックの美しさだけで世界を構築する。あの頃の泥臭い執念が、指先を通して現代のコードに宿っていく。
ジェネが提案した小手先の回避策ではなく、問題の根源にあるアルゴリズム自体を書き換える。 これは「作業」じゃない。「設計」であり、「思想」の注入だ。 かつて私が、親や学校という理不尽なシステムに反逆し、自分なりの最適解を見つけ出したように。 私はコードの中に、私の人生(ログ)を刻み込んでいた。
「どうだ、これなら文句ないだろ」
最後のセミコロンを打ち込み、エンターキーを叩く。 ビルド開始。 プログレスバーが伸びていく。エラー表示は……出ない。 システムは、まるで呼吸をするように滑らかに起動した。無駄な処理が削ぎ落とされ、機能美すら感じる挙動だ。
画面上のジェネが、一拍おいてメッセージを表示した。
『処理速度が30%向上しました。この記述方法は学習データセット内での優先度が低いパターンですが、極めて有効です。……学習しますか?』
その文面が、どこか感心しているように見えたのは私の自惚れだろうか。 私は椅子の背もたれに深く体を預け、ふっと笑った。
「ああ、学習しておけ。それが『年寄りの知恵』ってやつだ」
窓の外が白み始めている。 私は気づいた。 私は、プログラマーという職業が「AIの道具」になることを恐れていた。 だが、違った。 AIは確かに優秀で、速くて、体力が無限にある。けれど、それはあくまで「エンジン」だ。そのエンジンをどこに向けるか、どう制御するかを決める「ハンドル」を握れるのは、痛みを伴う経験をしてきた人間だけなのだ。
かつて私が嫌った大人たちは、私のハンドルを無理やり奪おうとした。だから私は反発した。 だが、今の私は違う。 この暴走しがちな、けれど可能性に満ちた「新人」を、隣で見守り、時に叱り、正しい道へと導くことができる。 それが、今の私が持つべき「技術者としての誇り」なのかもしれない。
「世話の焼ける部下だが……まあ、悪くない」
私は新しいコーヒーを淹れるために立ち上がった。 画面の中では、ジェネが私の書いたコードを解析し、吸収しようと静かに明滅を続けている。 その光は、かつて暗い部屋で私を照らし続けてくれた、あの8bitパソコンのカーソルのように、どこか温かかった。
(了)