第3話:多世界からの迷い子 ~重ね合わせの崩壊~
六月。 梅雨前線が停滞し、空は鉛色に塗りつぶされていた。 第13量子干渉クラスの教室には、雨音と、不快な電子ノイズが充満していた。
ザザッ……キュイィィン……
そのノイズの発生源は、教室の隅で膝を抱えている少女、シュレだった。
「……う、あ……」
彼女の姿は、まるで接触不良のホログラムのように激しく明滅していた。 一瞬、点滴を打たれたパジャマ姿(生)に見えたかと思えば、次の瞬間には白い死装束(死)に切り替わる。 その周期が早くなり、輪郭が溶け出していた。
「おい、どうしたシュレ! 顔色が悪いぞ……いや、顔がないぞ!」
俺、田中悟が駆け寄るが、触れようとした手は彼女の体をすり抜けてしまった。 物理的な感触がない。そこに「いない」かのような感覚。
「……危険ネ」
天井からガラが逆さまに顔を出した。
「彼女ノ『世界線』ガ、分岐シ過ギテイル。コノママデハ、情報量ガ爆発シテ、自我ガ崩壊スル」
「崩壊だと?」
「その通りよ」
窓際でナナが冷ややかに告げる。
「彼女は『シュレーディンガーの猫』そのもの。生きている世界と、死んでいる世界の確率が50:50で釣り合ったまま、観測されずにここ(吹き溜まり)に来てしまった。……でも、そろそろ限界ね」
ナナは空中にモニターを表示させた。 そこには、シュレのバイタルサインが「1」と「0」の間で乱高下するグラフが映っていた。
「どちらかの状態に確定させなければ、彼女は『存在しなかったこと』になるわ」
***
「……興味深い」
白衣の青年・カイが、シュレの前に立った。 彼は心配するでもなく、実験動物を見るような目で数式を書き殴っていた。
「多世界解釈(マルチバース)の欠陥だ。無数に分岐した可能性が、一つの座標に干渉し合っている。これを修正するには、強力な『観測』によって、一つの世界線を選び取るしかない」
カイはシュレの顔を覗き込んだ。
「おい、聞こえるか。君は今、分岐点にいる。 『生きている君』と『死んでいる君』。……どちらが正史(トゥルー・ルート)なんだ?」
シュレのノイズが激しくなる。 彼女は頭を抱え、震える声で答えた。
「……わか、らない……」 「分からないはずがない。君が望む未来を選べ」 「えら……べない……っ!」
シュレの瞳から、ノイズ混じりの涙がこぼれ落ちた。
「生きている世界の私は……病気で、お金がかかって……パパとママが喧嘩ばかりしてるの……私のせいで、家庭が壊れそうなの……」
ザザッ(パジャマ姿の幻影)
「死んでいる世界の私は……もういないけど、保険金が入って……弟が大学に行けるの……パパたちも、悲しんでるけど……仲直りしてるの……」
ザザッ(死装束の幻影)
「どっちが幸せなの……? 私が生きている方が迷惑なら……死んだ方がいいの……? でも、死にたくない……っ!」
残酷な選択。 彼女は、自分の生存が家族を不幸にする未来と、自分の死が家族を救う未来の狭間で、引き裂かれていたのだ。 だからこそ、確率は収束せず、彼女はバグとなってここに留まっていた。
「……なるほど。典型的なパラドックスだ」
カイは冷徹に言った。
「感情論で迷っているからバグるんだ。計算上、君の生存確率は低下し続けている。このまま消滅するよりは、『死』を確定させて、安定した幽霊(データ)として保存される方が合理的だ」
「ふざけるな!」
俺はカイの胸倉を掴んだ。
「合理的だから死ねって言うのか!? こいつはまだ10代だぞ! 生きたいって思って何が悪い!」
「教官。あなたの精神論では彼女を救えない。現に、彼女は消えかけている」
カイは俺の手を振り払った。 そして、シュレに向き直った。
「……いいだろう。僕が実験(手助け)をしてやる」
カイは教室の遮光カーテンを全て閉め切り、部屋を完全な闇にした。 そして、シュレの周囲にチョークで複雑な円陣(計算式)を描いた。
「これより『強制観測実験』を行う」
カイは手元のタブレットを操作し、先日花子さんから学んだ理論を応用した。
「恐怖という強い情動は、存在を確定させるアンカーになる。……シュレ、君に『死の恐怖』を与え、生存本能を極限まで刺激する。そうすれば、君の意識は自動的に『生』を選択し、波動関数は収束するはずだ」
カイがエンターキーを叩く。 教室の空気が変わった。 重力が歪み、天井がきしみ、見えない圧力がシュレを押し潰そうとする。
「いや……こわい……やめて……!」
「抗え! 死にたくないなら、生きたいと叫べ!」
カイが怒鳴る。 シュレの体が悲鳴を上げる。 だが、ノイズは収まらない。むしろ、彼女の体はますます透明になっていく。
「……なぜだ。計算通りなら、生存本能が勝つはずだ」 カイが焦る。
「違うわ、カイ」 ナナが静かに言った。 「彼女の迷いは『死ぬのが怖い』だけじゃない。『自分が存在していいのか』という罪悪感よ。恐怖を与えれば与えるほど、彼女は『自分なんていない方がいい』という結論に逃げ込んでしまう」
「な……ッ!?」
シュレの輪郭が崩れ始めた。 粒子となって霧散しようとしている。 完全消滅だ。
「失敗か……! 計算外だ!」 カイがタブレットを放り出す。
「シュレ!!」
俺は闇の中に飛び込んだ。 円陣の中へ。カイの計算式を踏み越えて。
「教官!? 危険だ! 君まで量子分解されるぞ!」
構うものか。 俺は、消え入りそうなシュレの肩を、強く抱きしめた。 感触がない。冷たい霧のようだ。 それでも、俺は叫んだ。
「聞くな! どっちの世界がマシかなんて、計算するな!」
「……せん、せ……?」
「お前の親が喧嘩してる? 知るか! 弟の学費? そんなもん大人がなんとかする問題だ! 子供が自分の命と引き換えに気を使うな!」
俺は彼女の目――ノイズの走る瞳を見つめた。
「俺はな、お前に生きててほしい! 理屈じゃねえ! 俺がそう思うからだ!」
それは、観測者としての「主観」だった。 客観的な正解などない。 ただ、俺という観測者が、彼女の存在を強烈に望むこと。
「ここにいろ! シュレ!」
その瞬間。 俺の体温が、熱量が、霧のような彼女の体に流れ込んだ気がした。
ピタリ。
ノイズが止まった。 明滅していた姿が、一つの形に定まる。 パジャマでも、死装束でもない。 教習所の制服(ジャージ)を着た、一人の少女の姿に。
「……あ」
シュレが自分の手を見た。 透けてはいるが、輪郭はくっきりとしている。
「……消えて、ない」
部屋の照明がついた。 カイが呆然と立ち尽くしている。
「……波動関数が、収束した……? 『生』でも『死』でもなく……この座標(教習所)における『幽霊』として?」
カイは黒板を見た。 そこには、どの世界線にも属さない、第三の解が示されていた。
「そうか……。彼女は『生きている世界』も『死んでいる世界』も選べなかった。だから、そのどちらでもない『ここ(バッファ領域)』を、自らの居場所として確定させたのか」
カイはフッと笑い、眼鏡の位置を直した。
「非論理的だ。……だが、エラー回避としては最適解か」
シュレが俺を見上げる。 その目には、もう迷いのノイズはなかった。
「先生……。私、ここにいてもいいの?」 「ああ。卒業するまではな」
俺は彼女の頭をポンと撫でた。今度は、しっかりと感触があった。
こうして、多世界から迷い込んだ少女は、ひとまずの「居場所」を見つけた。 だが、これは単なる先送りに過ぎない。 いつか彼女がここを卒業する時、再び「選択」の時は訪れるだろう。
そして、その様子を冷ややかな目で見つめる者がいた。 未来人・ナナだ。 彼女は手元の端末に、短いレポートを送信した。
『ターゲット(カイ)の干渉により、歴史に歪み発生。……修正の必要あり』
(第3話・完)