YMO世代の気持ち

YMOファンメーリングリストの管理者が思ったことを書いていきます。

【第3話】 パブリックビューイングの危機

スピンオフ:桜庭陽菜の深夜のツッコミ道場 〜正体隠して伝説へ〜

【第3話】 パブリックビューイングの危機

7.処刑台へようこそ

 金曜日の夜。  商店街にある「かぐらや」の奥座敷、鉄板のあるテーブル席は、異様な緊張感と熱気に包まれていた。

「接続完了。回線速度、良好だ」  秋山陸斗が、持ち込んだノートパソコンを店の壁掛けテレビに接続し、眼鏡を光らせた。  画面には、YouTubeの待機画面が表示されている。  中央には『緊急生配信! ボタニカル将軍、出てこいやSP』の文字。

「うおぉぉ! 始まったぞぉぉ!」  浜田健太がコテを両手に持って叫ぶ。 「楽しみね。どんなコメントが来るのかしら」  藤沢琴音も、興味津々といった様子で画面を見つめている。  神楽坂葵は、厨房から山盛りのもんじゃ焼き具材を運んできた。 「はい、お待たせ! 今日は『将軍観戦スペシャルもんじゃ』だよ!」

 クラスメイト、幼なじみ、そして店のお客さんたちまでもが、固唾を飲んで画面を見守っている。  その中心で。  桜庭陽菜は、死んだ魚のような目でウーロン茶を握りしめていた。

(……終わった。ここが私の処刑場や)

 陽菜は心の中で合掌した。  こんな衆人環視の中で、どうやってツッコミを入れろというのか。  スマホを取り出した瞬間に「あ、陽菜ちゃん何してるの? コメント打つの?」と覗き込まれ、身バレして終了だ。  かといって、コメントしなければ「将軍、逃げたな」「偽物だったか」と失望され、それはそれでプライドが許さない。

(どうする……トイレに駆け込むか? いや、タイミングが不自然すぎる。机の下でブラインドタッチ? 無理や、誤字ったら将軍の沽券に関わる……!)

 陽菜が冷や汗をかきながら葛藤していると、隣に座っていた蒼井悠真が、心配そうに声をかけてきた。 「……陽菜。大丈夫?」 「えっ?」 「顔色、真っ白だよ。……やっぱり、こういう雰囲気、苦手?」  悠真の声は、周りの喧騒にかき消されるほど小さく、優しかった。  陽菜は、縋(すが)るような目で悠真を見た。 「う、うん……ちょっとだけ、緊張しちゃって……」 「そうだよね。無理しないでね」  悠真はそう言って、陽菜の前に置かれたおしぼりの袋を開けてくれた。  その無垢な優しさが、今は五臓六腑に染み渡ると同時に、罪悪感で胸が張り裂けそうになる。

8.鉄板の防壁(アイアン・ウォール)

『はいどーもー! こんばんは!』  テレビ画面から、島村周平の能天気な声が響いた。配信開始だ。 『今日はですね、巷で噂の「ボタニカル将軍」さんが見てくれていることを祈って、とっておきの心霊スポットから生中継です!』

 島村が映し出したのは、古びた廃トンネルだった。  画面が暗くなり、ノイズが走る。 『聞こえますか……? このトンネル、女性の霊が出るらしくてですね……。おっと、今、誰かが僕の肩を叩いたような……!』

「出た! 島村の『肩叩かれた』芸!」  健太が突っ込む。 「いや、これは気流の変化による触覚の錯覚である可能性が高い」  陸斗が分析する。  みんなが画面に釘付けになる中、陽菜の指先がピクリと動いた。

(……叩いたんちゃうわ! ジャケットのフードが風で当たっただけやろがい! サイズ合うてへんねんその服!)

 言いたい。  今すぐにコメント欄に叩き込みたい。  喉まで出かかったツッコミを、ウーロン茶で無理やり流し込む。  陽菜の体が、禁断症状のように小刻みに震え始めた。

 その震えに、悠真が気づいた。 (陽菜……震えてる。やっぱり、怖いんだ)  悠真は、陽菜がオカルト映像に怯えているのだと確信した。  みんなの手前、帰るとは言い出せないのだろう。 (僕が、なんとかしてあげないと)

 悠真は、決意の眼差しで鉄板を見た。  そして、おもむろに立ち上がると、陽菜と、対面に座る健太・陸斗たちの間に割って入るように身を乗り出した。 「……よし、焼くよ」  悠真は、もんじゃのボウルを手に取った。 「えっ? 悠真が焼くの? 珍しいな」  健太が画面から目を離さずに言う。 「うん。僕、もんじゃにはちょっとうるさいんだ。……土手作りは任せて」

 ジュウゥゥッ!!  悠真は、陽菜の目の前の鉄板に、大量のキャベツを投下した。  そして、二つのヘラを使い、カンカンカンッ! と小気味よいリズムで具材を刻み始めた。  その体勢は、前傾姿勢。  悠真の広い背中と、立ち上る大量の湯気が、壁となって陽菜を覆い隠す。

 陽菜はハッとした。  目の前が、悠真の背中で埋め尽くされたのだ。  対面の健太たちの視線は、悠真の背中と湯気に遮られている。  横の琴音と葵は、画面に夢中だ。

(……死角や!)

 陽菜は直感した。  悠真くんが、私を守るために(と陽菜は解釈した)、人間の盾になってくれている!  テーブルの下、膝の上なら、誰にも見られない。  今しかない!

 陽菜は素早くスマホを取り出し、画面の輝度を最低まで下げた。  そして、親指を走らせる。

9.湯気の中の攻防

 画面の中では、島村がトンネルの壁のシミを指差して騒いでいた。 『見てください! これ、人の顔に見えませんか!? 苦悶の表情を浮かべる、落ち武者の霊です!』

 陽菜の指が残像を残す。  送信ッ!

 ボタニカル将軍:『ただの雨漏りのシミや! 落ち武者がそんなコンクリートのトンネルに出るかい! 歴史の教科書読み直してこい!』

 画面上のチャット欄に、将軍のコメントが表示された。  店内がどよめく。 「来た! 将軍だ!」 「ははは! 落ち武者否定www」 「相変わらずキレッキレだな!」

 島村もコメントを拾う。 『えー……将軍さんから「歴史を勉強しろ」とのお言葉をいただきました……。いや、確かにこのトンネル、昭和にできたやつですね……』

 陽菜はスマホを膝の上に伏せ、大きく息を吸った。 (……ふぅ。一仕事終えたわ)  顔を上げると、目の前には一生懸命にもんじゃの土手を作っている悠真の横顔があった。  彼は、周りが「将軍だ!」と騒いでいるのにも反応せず、ひたすらキャベツと向き合っている。 「……悠真くん」  陽菜が小声で呼ぶと、悠真は作業の手を止めずに、ちらりとこちらを見た。 「ごめんね、煙いよね」  悠真は、陽菜の方に煙がいかないように、手で仰いでくれた。 「ううん。……ありがとう」  陽菜は心からの感謝を伝えた。  悠真は「いいよ、これくらい」と優しく微笑む。

 悠真の心理:  (陽菜、顔色が少し良くなった。やっぱり、怖い画面が見えないようにしてあげて正解だったな。僕が壁になって、美味しいもんじゃを作って、彼女を怖がらせないようにしよう)

 陽菜の心理:  (悠真くん、私がコメント打ちやすいように、あえて壁になってくれてるんや……! しかも「煙いよね(=スマホの画面見えにくいよね)」って気遣いまで……! なんでこの人、こんなに察しがいいの!? 好き!!)

 完璧なすれ違い。  しかし、その結果として、陽菜の秘密は守られ、悠真の好感度はストップ高を記録していた。

 その後も、悠真は「チーズ入れるね」「次は明太もちにする?」と甲斐甲斐しく世話を焼き、そのたびに陽菜は悠真の影に隠れて、ここぞとばかりにツッコミを投稿し続けた。  『風の音や! 声ちゃうわ!』  『カメラの手ブレで酔うわ! 三脚使え!』

 店内の盛り上がりは最高潮に達し、島村も将軍との(一方的な)掛け合いを楽しんでいる。  鉄板の上では、もんじゃが香ばしく焦げていく。  悠真の背中は温かく、そして頼もしい。

 しかし、平和な時間は長くは続かなかった。  番組の終盤。  島村が、トンネルの最深部に到達した時。  本当のトラブルが、画面の向こうと、そしてここ「かぐらや」を襲うことになる。

『……え? ちょっと待ってください。カメラのバッテリーが……』  プツン。  唐突に、画面がブラックアウトした。  そして、店内の照明も、バチッという音と共に消えた。

「えっ!?」 「停電!?」  真っ暗闇に包まれた店内。  悲鳴が上がる中、陽菜のスマホだけが、膝の上で青白く光っていた。

(第4話へつづく)

【第2話】 話題の将軍と、悠真のマイペース

スピンオフ:桜庭陽菜の深夜のツッコミ道場 〜正体隠して伝説へ〜

【第2話】 話題の将軍と、悠真のマイペース

4.教室のどよめき

 翌朝。  教室のドアを開けた瞬間、桜庭陽菜は異様な熱気を感じて立ち止まった。  普段なら、昨日のテレビドラマの話や、部活の話でざわめいているはずの朝のホームルーム前。  しかし今日は、男子も女子も、いくつかのグループがスマホタブレットを囲んで盛り上がっている。

「おはよう、陽菜ちゃん!」  登校してきた神楽坂葵が、興奮気味に駆け寄ってきた。 「ねえねえ、昨日の『オカルトウォーカー』見た!?」 「えっ……!?」  陽菜の心臓が、早鐘を打った。 (ま、まさか……バレてる!?) 「あ、あはは……昨日は早く寝ちゃって……」  陽菜は精一杯の愛想笑いで誤魔化そうとした。しかし、葵のテンションは止まらない。 「もったいない! 神回だったんだよ! ほら、陸斗がアーカイブ再生の準備してくれてるから!」

 葵に手を引かれ、陽菜は秋山陸斗の席へと連行された。そこには浜田健太や他の男子生徒も集まっている。 「おう陽菜! 見ろよこれ!」  健太がバンバンと陸斗の机を叩く。  陸斗は眼鏡を光らせ、タブレットの画面を指差した。 「昨夜の配信だ。……この『ボタニカル将軍』というユーザーの言語センスが、極めて秀逸だ」

 画面には、昨夜の陽菜のコメントがデカデカと表示されている。  『宇宙人の仕業なわけあるか! ほんならUFOの車庫証明出してみぃ!』

「ぶははは! 車庫証明だってよ!」 「センスありすぎだろ!」 「島村さんがタジタジになってるのがウケる!」

 クラスメイトたちが爆笑している。  陽菜の顔から、サーッと血の気が引いていった。 (やめて……! 私の深夜のテンションを、朝の教室で公開処刑せんといて……!)  それは、自分が書いたポエムを全校集会で朗読されるに等しい羞恥プレイだった。

「この『将軍』、何者なんだろうな」  陸斗が真面目な顔で分析を始める。 「語彙の豊富さと、的確なツッコミのタイミング……。おそらく、コテコテの関西人。それも、人生経験豊富な40代〜50代の男性と推測される」 「だよねー! 大阪のおっちゃんって感じ!」  葵が同意する。

(……女子中学生や! 花を愛するボタニカル乙女や!)  陽菜は心の中で絶叫したが、顔には引きつった笑みを貼り付けたままだった。 「そ、そうだね……。怖いね、ネットって……」 「え、陽菜ちゃん怖いの?」 「うん、オカルトとか、そういう激しい言葉とか、ちょっと苦手かなって……」  陽菜はか弱い乙女を演じた。  ここで「いや、あのツッコミは愛があるんや!」などと口走れば、即座に容疑者として確保されるだろう。

5.悠真の勘違い

 その日の放課後。  陽菜は、一日中「将軍」の話題に晒され続け、精神的に摩耗していた。  掃除の時間になっても、まだ男子たちはホウキをギター代わりにしながら「車庫証明出してみぃ!」と真似して遊んでいる。

(……もうええわ。聞き飽きたわそのフレーズ)  陽菜がげんなりしながら黒板を消していると、不意に背後から声をかけられた。 「……陽菜」  振り返ると、蒼井悠真が心配そうな顔で立っていた。 「あ、悠真くん。どうしたの?」 「いや、今日一日、なんか元気ないなと思って」

 ドキリとした。  悠真くんは、いつも私を見ている。  写真部で培った観察眼は、時として鋭すぎるのだ。 「う、ううん! 全然元気だよ?」 「そう?」  悠真は黒板消しを陽菜の手から優しく取ると、代わりに高いところを消し始めた。 「……みんながオカルトの話ばっかりしてるから、疲れちゃったんじゃない?」 「えっ?」 「陽菜、怖い話苦手だもんね。朝も、みんなが騒いでる時、顔色悪かったし」

 ――勘違いだ。  盛大な勘違いだ。  顔色が悪かったのは「恐怖」ではなく「羞恥」と「身バレへの焦り」のせいだ。  けれど、悠真のその解釈は、今の陽菜にとっては渡りに船だった。

「……うん。ちょっとだけ、怖くて」  陽菜は申し訳なさと安堵がないまぜになった気持ちで、俯いてみせた。  すると、悠真は作業の手を止め、陽菜の方を向いた。 「ごめんね。俺がもっと早く気づいて、話題を変えればよかった」 「えっ、悠真くんのせいじゃないよ!」 「ううん。……だから、お詫びじゃないけどさ」  悠真は少し照れくさそうに、ポケットから何かを取り出した。  それは、駅前にできた新しいカフェの割引チケットだった。 「写真部の先輩にもらったんだ。新作のパンケーキが美味しいらしいよ。……よかったら、帰りに寄って行かない? 気分転換に」

 陽菜は目を見開いた。  これは、デートの誘いではないか。  しかも、「元気のない幼なじみを励ますため」という、この上なく優しくて正当な理由つきの。 (悠真くん……っ! なんてええ子なんや……!)  心の中の関西弁オカンが感動でハンカチを噛んでいる。  自分が「将軍」であることを隠している罪悪感はあるけれど、この優しさを無下にはできない。

「……うん! 行きたい! 甘いもの食べたら、元気になるかも」 「よかった。じゃあ、掃除終わったら行こうか」  悠真がふわりと笑う。  その笑顔を見ていると、ネットの喧騒も、将軍の正体も、どうでもよくなってくる気がした。

6.パンケーキと新たな火種

 駅前のカフェ。  ふわふわのパンケーキを前に、陽菜は至福の時を過ごしていた。 「おいし〜! 生クリーム最高!」 「すごいボリュームだね。食べきれる?」 「余裕だよ! 甘いものは別腹だもん」  悠真はアイスコーヒーを飲みながら、そんな陽菜を穏やかな目で見守っている。  話題は、部活のことや、次のテストのこと。  オカルトの「オ」の字も出ない、平和な時間。  陽菜は思った。 (やっぱり、リアルが一番やな。ネットの反応なんて気にせんと、こうやって悠真くんと過ごす時間が一番幸せや……)

 そう。  このまま平和に一日が終わればよかったのだ。  しかし、神様(とバラエティの神様)は、陽菜に安息を与えるつもりはないらしい。

 ピロリン♪  陽菜のスマホが通知音を鳴らした。  画面を見ると、『オカルトウォーカー』の公式アカウントからの通知だ。  悠真に見えないように、そっと画面を確認する。  そこに書かれていた告知を見て、陽菜はパンケーキを喉に詰まらせそうになった。

 『緊急告知! 次回の生配信にて、「ボタニカル将軍」と直接対決!? 将軍、見ていたら連絡をくれ!』

「ごふっ……! げほっ、げほっ!」 「陽菜!? 大丈夫!?」  悠真が慌ててお水を差し出す。 「だ、大丈夫……クリームが変なところに入っちゃって……」  陽菜は涙目で水を飲みながら、心の中で絶叫した。 (島村ァァァァァ! 余計なことすなァァァァ! なんで一般人を巻き込むんや!)

 さらに悪いことに、グループLINEにも通知が入る。  送り主は陸斗だ。

 陸斗:『速報。島村氏が将軍に対談を要求している。次回の配信は絶対に見逃せない』

 健太:『マジか! すげぇ! うおぉぉ盛り上がってきた!』

 葵:『ねえねえ、次回の配信、みんなで見ない? うちのお店(かぐらや)のテレビに繋いでさ! パブリックビューイングしよ!』

 健太:『賛成! もんじゃ食いながら将軍の正体を推理しようぜ!』

 陽菜の顔色が、パンケーキの皿よりも白くなった。  みんなで見る? 私の目の前で?  もし、その場で島村から「将軍、コメントください!」なんて言われたらどうする?  みんなが見ている前で、スマホを取り出して入力することなんて不可能だ。  かといって、無視したら「将軍逃げたww」と笑いものになるだろう(それは将軍としてのプライドが許さない)。

「……陽菜? やっぱり顔色悪いよ。帰ろうか?」  悠真が心配そうに覗き込んでくる。  彼の純粋な優しさが、今は痛い。  ごめんね、悠真くん。私、また嘘をつかなきゃいけない。

「う、うん……。ごめんね、ちょっと疲れが出ちゃったみたい」  陽菜は立ち上がった。  足取りは重い。  甘いパンケーキの余韻は消し飛び、口の中には、これから訪れるであろう修羅場の味が広がっていた。

 逃げ場なし。  次回、「かぐらや」決戦。  陽菜の、そして「ボタニカル将軍」の運命やいかに。

(第3話へつづく)

【第1話】 覚醒、ボタニカル将軍

スピンオフ:桜庭陽菜の深夜のツッコミ道場 〜正体隠して伝説へ〜

【第1話】 覚醒、ボタニカル将軍

1.放課後の花壇と、裏腹な内心

 放課後の校舎裏に、穏やかな西日が差し込んでいる。  ボタニカル・デザイン部が管理する花壇は、春の花々が咲き乱れ、甘い香りを漂わせていた。

「よし、お水たっぷり飲んでねー」

 桜庭陽菜(さくらば・ひな)は、ジョウロを傾けながら、パンジービオラたちに優しく語りかけた。  ふんわりとした茶色のボブヘアが風に揺れ、その表情は聖母のように慈愛に満ちている。  クラスメイトや先生たちからは「癒やし系」「おっとりしていて、虫も殺さないような子」という評価を受けている陽菜。  実際、彼女は花を愛し、平和を愛するごく普通の女子中学生だ。

 ――ただし、その「内面」を除いては。

(……あ?)

 陽菜の視界の端に、葉の裏でモゾモゾと動く黒い影が入った。  毛虫だ。しかも、毒々しい色の毛が生えた、なかなかの大物だ。  その瞬間、陽菜の脳内で、とあるスイッチがカチリと切り替わった。

(うわっ、出よった! 害虫界の不法侵入者! 誰の許可取ってそこで食うてんねん! チケット持っとんかワレェ!)

 彼女の心の中には、なぜかコテコテの関西弁を話す、気性の荒い「オカン」が住んでいる。  お笑い好きの母の影響か、あるいは深夜に見ているバラエティ番組のせいか。感情が高ぶると、脳内言語が自動的に関西弁に変換され、鋭いツッコミを入れてしまうのが陽菜の秘密の癖だった。

(あかん、このままじゃ葉っぱが食い荒らされてまう。……強制退去や!)

 陽菜は、内心で舌打ちをしつつ、顔には「困ったなぁ」という困り眉の笑顔を貼り付けた。  そして、落ちていた小枝を箸のように使い、毛虫を器用に摘み上げる。 「ごめんねー、あっちの草むらにお引越ししようねー」 (二度とツラ見せんなよ! 達者でな!)  ポイッ。  優雅な手つきで、毛虫を遠くの茂みへとリリースした。

 カシャッ。

 その時、背後で乾いたシャッター音がした。  陽菜がビクッとして振り返ると、そこには一眼レフカメラを構えた幼なじみ、蒼井悠真(あおい・ゆうま)が立っていた。

「あ、悠真くん……」 「ごめん、驚かせちゃった?」  悠真はカメラを下ろし、人懐っこい笑顔を見せた。 「ううん、大丈夫。……今の、見てた?」  陽菜は冷や汗をかいた。まさか、心の声(関西弁の罵倒)が顔に出ていなかっただろうか。 「うん。見てたよ」  悠真はモニターを確認しながら頷いた。 「陽菜って、すごいなと思って」 「え?」 「普通の女子なら、あんな大きな毛虫見たら悲鳴上げて逃げるよ。でも陽菜は、嫌な顔ひとつせずに、優しく逃してあげてたから」  悠真は、ファインダー越しに見た陽菜の姿を思い出し、少し照れくさそうに言った。 「……花だけじゃなくて、虫にも優しいんだなって。なんか、陽菜らしいないって思った」

(……ち、違うねん悠真くん! あれは「優しさ」ちゃう、「排除」や! 衛生管理や!)

 陽菜は心の中で必死に訂正したが、口に出せるはずもない。  悠真の瞳は、どこまでも澄んでいて、陽菜を「優しい女の子」として疑いなく映している。  その純粋な信頼が嬉しくもあり、同時に、本当の自分を隠している罪悪感でチクリと胸が痛む。

「あ、ありがとう……。悠真くんは、部活?」 「うん。今日は『放課後の光』ってテーマで撮ってて。……いい写真が撮れたよ」  そう言って微笑む悠真を見て、陽菜の心臓がトクンと跳ねた。  夕日に照らされた悠真の横顔は、悔しいくらいに絵になる。  彼は決して、学校で一番モテるタイプではない。目立つ方でもないし、少し天然なところもある。  でも、陽菜にとっては、誰よりも特別で、一番かっこいい男の子だ。

(あかん……そんな顔で見られたら、調子狂うわ……)

 陽菜は顔が赤くなるのを隠すように、慌ててジョウロを持ち直した。 「そ、そっか! じゃあ私、片付けして帰るね!」 「うん。また明日」

 悠真に手を振り、陽菜は逃げるようにその場を離れた。  背中に感じる彼の視線が、くすぐったくて、温かくて。  この「清楚でおっとりした幼なじみ」という皮を被り続けるためにも、溜まった「ツッコミ衝動」は、どこか別の場所で発散しなければならない。

 そう、今夜こそ。

2.深夜のオカルト・ショー

 夜十一時。  家族が寝静まった桜庭家の一室。  お風呂上がりの陽菜は、部屋の鍵をかけ、ヘッドホンを装着し、ベッドの上に正座していた。  目の前にはタブレット端末。  画面には、怪しげなフォントで『オカルトウォーカー』のロゴが表示されている。

「……来た。配信開始や」

 陽菜の瞳が、獲物を狙う猛禽類のように鋭く光る。  昼間の穏やかな表情はどこへやら。今の彼女は、ストレス社会を生き抜くため、笑いとツッコミを渇望する一人の戦士だった。

 画面が切り替わり、薄暗い廃墟のような場所が映し出される。 『はいどーもー! 真実の探求者、オカルトウォーカーの島村周平です!』  画面に現れたのは、黒いジャケットにサングラス、そして無駄に良い声を持つ男、島村周平だ。  陽菜のお気に入りのチャンネルである。ただし、「怖いから」ではない。「ツッコミどころが満載だから」だ。

『今日はですね、視聴者さんから寄せられた「謎の光が目撃される河川敷」に来ております! なんでもここ、UFOの給水ポイントになっているという噂がありまして……』

「給水ポイントて! マラソン大会か! そもそもUFO水で動くんか!?」  開始早々、陽菜の口から鋭いツッコミが漏れる。  もちろん、声量は抑えめで。隣の部屋には受験生の兄はいない(東京だ)が、両親が起きる可能性がある。

 島村は、手ブレのひどいカメラを持って、真っ暗な河川敷を歩き回る。 『おっ……!? 今、空が光りませんでしたか!?』  カメラが夜空を映す。確かに、遠くでピカッと光ったように見える。 『これは……UFOからのコンタクトかもしれません! 彼らは僕に、何かを伝えようとしている!』

「雷や!! どう見ても遠くの雷やろがい!! 天気予報見んかい!」  陽菜は膝を叩いて悶絶する。  コメント欄には『うおおお!』『すげえ!』『未知との遭遇!』といった、純粋すぎる(あるいは面白がっている)コメントが流れていく。  違う。そうじゃない。  このままでは、島村のポンコツ推理が「真実」としてまかり通ってしまう。  それは、陽菜の「笑いの美学」が許さなかった。

 動画は進む。島村が川の水をペットボトルに汲み始めた。 『この水には、宇宙人のエネルギーが溶け込んでいる可能性があります。これを持ち帰って分析すれば、人類の科学は数百年進歩するかもしれない……!』 「泥水や! お腹壊すだけやがな!」

 さらに、草むらがガサガサと揺れる。 『出たッ! グレイ(宇宙人)か!? それともチュパカブラか!?』  カメラがズームする。そこには、驚いた顔の野良猫が映っていた。 『……なんだ、猫か。……いや待てよ。この猫、目が光っている……。まさか、宇宙人が猫に擬態して僕を監視しているのか!?』

 ブチッ。  陽菜の中で、何かが切れる音がした。

「ええ加減にせぇよ……!」  陽菜は震える手で、スマホを手に取った。  普段使っているアカウントではない。  この番組にツッコミを入れるためだけに作成した、裏アカウント。  ハンドルネームは――『ボタニカル将軍』。  (部活の名前と、なんとなく強そうな言葉を組み合わせただけだ)

 陽菜の指が、スマホの画面上で残像が見えるほどの速度でフリック入力を開始した。  溜まりに溜まったストレスと、島村への愛ある叱咤激励を込めて。

3.将軍、戦場へ立つ

 配信画面のチャット欄に、一つの長文コメントが投下された。

ボタニカル将軍: 『宇宙人の仕業なわけあるか! その光は北関東特有の雷や! あと猫は夜行性やから目は光るんじゃ! 物理と生物の教科書読んで出直してこい! ほんでUFOが水汲むんやったら、ちゃんと河川事務所に許可取って車庫証明出してみぃ!』

 一瞬、コメント欄の流れが止まった。  そして次の瞬間。

『wwwwwww』 『正論すぎるwww』 『車庫証明で草』 『将軍きたこれ』

 爆笑の渦が巻き起こった。  配信中の島村も、タブレットでコメントを確認し、目を丸くした。 『えー……「ボタニカル将軍」さんから、非常に……えー、辛辣かつ的確なご意見をいただきました』  島村が苦笑いしながら読み上げる。 『車庫証明……確かに、UFOも路駐はダメですからね……ハハッ』

 画面の向こうの島村がタジタジになっているのを見て、陽菜はベッドの上でガッツポーズをした。 「よっしゃあ! これで成仏できるわ!」  胸のつかえが取れ、スッキリとした爽快感が体を駆け巡る。  これだ。この瞬間こそが、日々の「清楚キャラ」維持の疲れを癒やしてくれるのだ。

 その後も、島村がボケるたびに、陽菜(ボタニカル将軍)は間髪入れずにツッコミを投稿し続けた。  『そこは右じゃなくて左や! 地図見ろ!』  『心霊写真ちゃうわ、レンズの汚れや! 拭け!』  その言葉選びのセンスと、テンポの良さに、視聴者たちは島村そっちのけで将軍のコメントを待ち望むようになっていった。

『……というわけで、本日の調査は終了です! 宇宙人の尻尾は掴めませんでしたが……ボタニカル将軍という、新たな未知の生物を発見しましたね!』  島村が上手いことを言って配信を締める。  陽菜は満足げに「ふぅ……」と息を吐き、ヘッドホンを外した。

「今日もええ仕事したわ……」  心地よい疲労感。  時計を見ると、深夜一時を回っている。 「やば、明日も学校や。寝なきゃ」  陽菜はタブレットを閉じ、布団に潜り込んだ。

 彼女は知らなかった。  この夜の配信が、オカルト界隈で「神回」として切り抜かれ、拡散され始めていることを。  そして、「ボタニカル将軍」の正体が、地方都市の平凡な(ように見える)女子中学生であることなど、誰も想像すらしていないことを。

 翌朝。  スズメの鳴き声と共に目を覚ました陽菜は、いつものように髪を整え、制服に着替え、「おっとりした桜庭陽菜」の仮面を装着した。 「行ってきまーす」  何も知らない陽菜は、軽い足取りで学校へと向かう。  そこで待ち受ける、クラスメイトたちの「話題」と、悠真の「天然な反応」に冷や汗をかくことになるとは知らずに。

(第2話へつづく)

【第4話(最終回)】 旅立ちの朝、あるいは再出発

スピンオフ:スマイルマートの夜想曲 〜渡る世間に福来たる〜

【第4話(最終回)】 旅立ちの朝、あるいは再出発

10.コンビニの看板娘(?)

 翌朝。  スマイルマートの自動ドアが開くと、そこには見慣れない光景が広がっていた。 「い、いらっしゃいませぇ……」  レジカウンターの中に立っていたのは、派手なコートを脱ぎ捨て、店の制服である紺色のエプロンを身につけた良子だった。  化粧は薄めで、髪も後ろで一つに束ねている。昨日までのふてぶてしさは鳴りを潜め、どこか借りてきた猫のように背中を丸めていた。

「あれ? あの人……」  登校前にパンを買いに来た浜田健太が、目を丸くして立ち止まった。 「この間の、石川さんの妹さんだよね?」  隣にいた蒼井悠真も驚いている。 「……なに見てんのよ。買い物なら早くしなさい」  良子は少しバツが悪そうに顔を背けながら、それでもレジの操作をたどたどしく進めた。 「ピ、ピッ……合計、三百二十円になります」 「へぇー! 店員さんになったんすか! 似合ってますよ!」  健太が屈託なく笑うと、良子は一瞬呆気にとられ、それから小さく、本当に小さくだが、「……ありがと」と呟いた。

 その日の昼下がり。  店の前を通りかかった「かぐらや」の女将・雅子が、ガラス越しに中の様子を見て、驚いて飛び込んできた。 「ちょっと泰介ちゃん! あれ、良子ちゃんじゃないの!?」  私は品出しの手を止めて苦笑した。 「ああ。働くって言い出してね。使い物になるかはわからないが」 「へぇ……。やるじゃない」  雅子はレジへ歩み寄り、商品をドンと置いた。 「これ、お願い」 「あ、雅子さん……」  良子は気まずそうに目を伏せた。先日、あんなに激しく罵り合った相手だ。 「……昨日は、すみませんでした。偉そうなこと言って」  良子が深々と頭を下げると、雅子はフンと鼻を鳴らして笑った。 「いいのよ。あんたが元気ならそれで。……似合ってるわよ、そのエプロン。昔のお母さんにそっくり」 「やめてよ。お母さんの方が美人だったわよ」 「口答えする元気があれば大丈夫ね。ほら、お釣り!」

 商店街の噂話は、またたく間に更新された。  『石川さんとこの妹さん、改心したらしいわよ』  『意外と愛想がいいじゃないか』  客たちは、好奇心と温かい目で、不慣れな「新人店員」を見守るようになった。  良子は文句を言いながらも、トイレ掃除をし、揚げ物の油を変え、深夜の酔っ払いの相手をした。  その背中からは、憑き物が落ちたように、「生活」の匂いがし始めていた。

11.決断の時

 それから二週間が経ったある日の夕方。  事務室の電話が鳴った。 「はい、スマイルマートです」  私が出ると、電話の主は低い男の声だった。良子の夫だ。 『……あいつ、良子はそちらにいますか?』 「ああ、いるよ。……話すか?」 『いえ。ただ……迎えに行きますと、伝えてください。今週末に』

 私は電話を切り、バックヤードで休憩中の良子に伝えた。 「旦那からだ。週末、迎えに来るそうだ」  良子は持っていたお茶のペットボトルを握りしめ、しばらく黙っていた。 「……そう」 「どうする。帰りたくないなら、追い返すぞ」  私が言うと、良子は首を横に振った。 「ううん。……会うわ」  彼女は顔を上げた。その目には、以前のような「逃げ」の色はなかった。 「いつまでもここに居候してるわけにはいかないしね。それに……ちゃんと話をしたいの。喧嘩じゃなくて、これからのこと」 「そうか」  私は短く答えた。多くを語る必要はなかった。  彼女はもう、自分で答えを出している。

12.旅立ちの朝

 週末の朝。  店の前の駐車場に、一台の車が停まった。  降りてきたのは、少し疲れた顔をした、真面目そうな男性だった。  良子はボストンバッグを持って、店の外に出た。  二人はしばらく何かを話し合っていたが、やがて男性が深々と頭を下げ、良子も小さく頷いたのが見えた。

「お兄ちゃん」  良子が戻ってきて、私に向き直った。 「お世話になりました。……私、帰るわ」 「ああ。旦那とは上手くやれそうか?」 「わかんない。でも、もう一度やり直してみる。私の料理の味が濃いなら、薄くすればいいだけだしね」  良子は自嘲気味に笑った。 「それに、もしダメだったら……またここがあるし」 「おいおい、勘弁してくれよ」  私が渋い顔をすると、良子はニカっと笑った。 「嘘よ。次はちゃんと、自分でなんとかする。……お兄ちゃんが守ってきたこの店を見て、私も自分の場所を守らなきゃって思ったから」

 良子はバッグを持ち直し、背筋を伸ばした。 「ありがとう、お兄ちゃん。あのお茶漬けの味、忘れないわ」 「……ああ。いつでも帰ってこい。在庫の茶漬けくらいなら、また食わせてやる」 「ふふ、もう御免よ」

 良子は車に乗り込み、助手席から手を振った。  車が走り出し、商店街の角を曲がって見えなくなるまで、私は見送った。  冬の風が吹いたが、それはもう、凍えるような寒さではなかった。春の匂いが混じっていた。

13.エピローグ

 良子が去り、スマイルマートには元の静寂が戻った。  ……はずだったが。

「いらっしゃいませー!」  放課後の店内には、中学生たちの声が響いていた。  良子がいなくなった後も、悠真くんたちは変わらずここを「たまり場」として利用してくれている。 「石川さん、最近なんか顔色が良くなりましたね?」  レジで悠真くんが言った。 「そうかい? 厄介払いができたからかな」 「またまた。妹さんがいなくなって、寂しいんじゃないですか?」  図星を突かれて、私は苦笑いした。 「……まあね。人間ってのは面倒くさい生き物だが、一人で店番をするには、夜は長すぎるからな」

 悠真くんは、首から下げたカメラを持ち上げた。 「石川さん、一枚撮らせてもらってもいいですか?」 「私を? 絵にならないよ」 「そんなことないです。この店は、僕たちの日常の一部ですから」  悠真くんはファインダーを覗いた。  私は、少し照れくさそうにエプロンの襟を正し、レジの前に立った。 「……はい、チーズ」

 カシャッ。

 シャッター音が、店内に優しく響いた。  写真の中の私は、どんな顔をしているだろうか。  たぶん、少しだけ「お兄ちゃん」の顔をしているかもしれない。

 自動ドアが開く。 「いらっしゃいませ。スマイルマートへようこそ」  私は今日も、この街の灯台守として、通り過ぎる人々を迎える。  渡る世間は鬼ばかりかもしれないが、たまには福もやってくる。  温かい肉まんと、少しのお節介を用意して、私は次の客を待つのだ。

(完)

第9話:禁忌『里帰り』 ~開かずの通知表~

第9話:禁忌『里帰り』 ~開かずの通知表~

 「みきわめ」を突破した翌日。  教官は、いつになく真剣な面持ちで教壇に立っていた。

「これより、卒業検定の課題を発表する」

 教官は黒板に、たった一行だけ文字を書いた。

『ターゲット:生前の最愛の人物』

 教室がざわつく。  最愛の人。それはつまり、親、恋人、親友……自分を最もよく知る人物のことだ。

「おいおい、マジかよ教官。オレにカーチャンをビビらせろってのか?」  ブッコミが声を荒らげる。 「冗談じゃない! そんな酷いことできるわけがない!」  みーちゃんも抗議する。

 だが、教官は静かに首を振った。

「これは『優しさ』だ」

 教官は俺たちを見渡した。

「お前たちが死んで、残された遺族はどうしていると思う? ……悲しみに暮れ、時が止まったまま、前に進めていない者が多い」

 ドキリとした。  俺が死んでから、もう一年近くが経つ。母さんはどうしているだろうか。

「死者が現世に未練を残すように、生者もまた、死者に執着する。その執着を断ち切るには、強烈なショック療法――つまり『恐怖による別れ』が必要なのだ」

 教官の言葉が重く響く。

「『あいつはもう化けて出るような幽霊になっちまったんだ』『もう私の知っているあの子じゃない』……そう思わせて、彼らを恐怖と共に日常へ送り返してやる。それが、お前たちが最後にできる親孝行だ」

 ……なるほどな。  綺麗に成仏して消えるだけじゃ、残された方は踏ん切りがつかないってことか。  悪役を演じて、嫌われて去る。それが俺たちの卒業制作ってわけだ。

「検定は三日後。それまでは『コースの下見(ロケハン)』として、生前の自宅への帰宅を許可する。……行ってこい。そして、覚悟を決めてこい」

 ***

 許可を得て、俺は一年ぶりに実家へ戻ってきた。  都内にある、古びた団地の一室。  ドアをすり抜けて中に入ると、懐かしい夕飯の匂いがした。肉じゃがだ。

「……ただいま」

 誰もいない玄関で呟く。  リビングに行くと、母さんが一人でテレビを見ていた。  背中が、記憶にあるよりも一回り小さくなっている。白髪も増えた気がする。

 仏壇には、俺の遺影が飾られていた。  浪人中の、むさいジャージ姿の写真だ。もっとマシな写真はなかったのかよ。

「……あら、悟(さとる)。おかえり」

 母さんが、遺影に向かって話しかけた。

「今日は肉じゃがよ。あんた好きだったでしょ」

 母さんは、遺影の前に小鉢を供えた。  そして、その横には――「茶封筒」が置かれていた。

 あれは……大学の合否通知だ。

(まだ……開けてないのか……?)

 俺が死んだのは、試験結果が届く直前だった。  母さんは、俺が死んでから一年間、あの封筒を開けられずにいるのだ。

 もし「合格」だったら――『あの子は受かっていたのに死んでしまった』という無念が残る。  もし「不合格」だったら――『あの子は報われないまま死んでしまった』という後悔が残る。

 どっちに転んでも地獄。だから、母さんは時を止めたんだ。  俺が「ただの浪人生」のままでいられるように。

「……にゃあ」

 足元で鳴き声がした。  飼い猫のタマだ。俺が踏んづけて死ぬ原因になった因縁の相手。  タマは俺の足元(霊体)が見えているのか、擦り寄ってこようとして、スカッと通り抜けてしまった。

「タマ、どうしたの? 何もないところに向かって」

 母さんが不思議そうに笑う。  その笑顔は、どこか張り付いたようで、今にも泣き出しそうだった。

(……ああ、そうか)

 俺は気づいてしまった。  地縛霊になっているのは俺だけじゃない。  母さんもまた、この部屋に縛り付けられた幽霊みたいなものなんだ。

 俺が成仏しない限り、母さんは一生、あの開かずの封筒を見つめて、死んだ息子の幻影と暮らし続けることになる。

(……やらなきゃな)

 俺は拳を握りしめた。  合格とか、不合格とか、そんなことはもうどうでもいい。  俺がやるべきことは一つ。  母さんを、腰が抜けるほどビビらせて、「もうこんな家、住んでられない!」と思わせることだ。  そして、新しい人生へ追い出してやる。

「……待ってろよ、母さん」

 俺は眠っている母さんの肩に、触れられない手をそっとかざした。

卒業検定、最高に怖いお化け屋敷にしてやるからな」

 ***

 ――翌日、合宿所。

「おかえり、浪人」

 部屋に戻ると、メンバー全員が揃っていた。  みんな、昨夜とは顔つきが違っていた。  エリートは眼鏡を拭きながら沈黙し、ブッコミは窓の外を睨みつけ、みーちゃんはぬいぐるみを強く抱きしめている。

 言葉はいらなかった。  全員、見てきたのだ。残された人たちが、まだ過去に囚われている姿を。

「……やるぞ、お前ら」

 俺が言うと、エリートがふっと笑った。

「ああ。僕の計算によると、全員合格の確率は限りなく低い。……だが、挑む価値はある」 「泣いても笑っても最後だ。派手にやろうぜ」

 ブッコミが拳を突き出す。

 俺たちは円陣を組んだ。  目指すは全員合格。そして、最愛の人たちとの決別。  第104期・地縛予備軍、最後のミッションが始まる。

(第9話・完)

【第3話】 兄の怒りと、深夜の茶漬け

スピンオフ:スマイルマートの夜想曲 〜渡る世間に福来たる〜

【第3話】 兄の怒りと、深夜の茶漬け

7.レジ裏の攻防

(独白:石川泰介)

 人間、追い詰められるとろくなことを考えないものだ。  雅子ちゃんとの大喧嘩から数日。良子は二階の部屋に引きこもり、食事の時以外は姿を見せなくなっていた。  商店街を歩けば「出戻りの妹さん、まだいるの?」という視線が刺さり、店の手伝いをしようにも、私の無言の圧力に耐えきれなくなったのだろう。  彼女のプライドはズタズタになり、そして逃走本能だけが肥大化していた。

 その日の夜。  私がバックヤードで商品の発注作業を終え、店内に戻ろうとした時のことだ。  レジの方から、ガチャガチャという不審な音が聞こえた。  客はいない。アルバイトの学生は、奥の冷蔵庫でドリンクの補充をしているはずだ。

 私は足音を忍ばせて、レジカウンターへと近づいた。  そこにいたのは、良子だった。  彼女は、レジのドロア(金銭箱)を無理やり開けようとしていたのだ。 「……くそっ、鍵どこよ……!」  焦った様子でキーボードを叩き、ガサゴソとカウンターの下を探っている。その手には、自分のボストンバッグが握りしめられていた。

「……何をしてるんだ」  私が声をかけると、良子は「ひっ!」と小さく悲鳴を上げ、飛び上がった。 「お、お兄ちゃん……! 起きてたの!?」 「今から深夜シフトだ。……その荷物はどうした」 「か、帰るのよ! 東京に!」  良子は開き直ったように叫んだ。 「もううんざり! 雅子さんには罵倒されるし、近所の人には白い目で見られるし! こんな狭苦しい街、一秒だっているもんんですか!」 「帰るのは勝手だが、レジに手を出したのはどういうつもりだ」 「お金がないのよ! 新幹線代くらい貸してくれたっていいじゃない! ここは親の店でしょう!? 私にだって権利はあるはずよ!」

 良子は私の胸を突き飛ばし、レジに手を伸ばした。 「どいてよ! 三万円でいいのよ! 東京に戻れば、友達に借りて返すから!」 「やめろ良子!」 「離して! 私は東京に帰るのよ! こんな惨めな思いをするために帰ってきたんじゃないわよ!」

 揉み合いになった。  彼女の爪が私の腕を引っ掻く。ボストンバッグが床に落ち、中から化粧品や着替えが散乱した。  それでも彼女は、浅ましいほどに金銭を求めて手を伸ばし続ける。  その姿を見た瞬間、私の頭の中で、何かがプツリと切れた。

 私は良子の腕を掴み、力任せに引き剥がした。  そして、腹の底から声を張り上げた。

「いい加減にしろッ!!」

 店内中に、怒声が響き渡った。  ドリンクを補充していたアルバイトの子が、驚いて顔を出すほどの大声だった。  良子は目を見開き、凍りついたように動きを止めた。  温厚な事なかれ主義の兄が、こんな大声を出すなんて思ってもいなかったのだろう。

8.兄の説教

「……座れ」  私は震える指で、レジ横のパイプ椅子を指差した。  良子はおずおずと、へたり込むように座った。  私は大きく息を吸い込み、乱れた呼吸を整えてから、静かに、しかし重く語り始めた。

「良子。お前は勘違いをしている」 「……勘違いって、なにが」 「ここは、親の店じゃない。俺の店だ」  私は床を指差した。 「親父とお袋が死んでから十年。この店を改装し、借金を返し、毎日毎日、朝も夜もここに立ち続けて、信用を守ってきたのは俺だ。お前が東京で『田舎は嫌だ』と言って自由に暮らしている間、俺はこの十坪の城を、歯を食いしばって守り抜いてきたんだ」

 良子は唇を噛んで俯いた。 「三万円? はした金だと思うか? この店で三万円の利益を出すのに、どれだけの肉まんを売り、どれだけの頭を下げなきゃならないか、お前にわかるか?」 「……わかんないわよ。私はコンビニ店員じゃないもの」 「わかろうともしない人間に、一円だって渡すわけにはいかない。それは、汗水流して働いている世間の人たちに対する裏切りだ」

 私は、散乱した良子の荷物を一つ一つ拾い上げながら続けた。 「お前は昔からそうだ。嫌なことがあるとすぐに逃げる。高校の時も、就職の時も、そして結婚も。……今回だってそうだ。旦那と向き合うのが怖くて、現実を見るのが嫌で、被害者ぶってここに逃げ込んできただけだろう」 「ち、違うわよ! 私は……!」 「違わない! お前は自分の人生の責任を、誰かに押し付けているだけだ!」

 私の言葉は、良子の痛いところを容赦なく抉(えぐ)った。 「東京が嫌なら帰ってくればいい。出戻りだろうが何だろうが、兄妹なんだから面倒は見る。……だがな!」  私は良子の目の前に立ち、その目を見据えた。 「ここで生きるなら、ここのルールに従え。客に頭を下げ、床を磨き、汗をかいて働け。雅子ちゃんに嫌味を言われても、近所の噂になっても、笑って耐えろ。それが『生きる』ってことだ。それができないなら……今すぐこの店から出て行け。金はやらん。歩いて東京へ帰れ!」

 長い沈黙が流れた。  冷蔵庫のモーター音だけが、ブーンと低く唸っている。  良子の肩が震え始めた。  そして、ポタポタと床に涙が落ちた。

「……お兄ちゃん……」  良子は顔を覆って泣き出した。 「そんなふうに……思ってたのね……。ごめんなさい……ごめんなさい……」  それは、芝居がかったヒロインの涙ではなかった。  自分の弱さと浅ましさを突きつけられ、それでも見捨てずにいてくれた兄の厳しさに触れた、一人の人間の悔恨の涙だった。

「……泰介さん」  いつの間にか、アルバイトの学生が心配そうに立っていた。 「すみません、休憩入ってもいいですか?」 「ああ、すまないね。……少し、店を閉めるよ」  私は表の看板の電気を消した。  今夜は、客の来ない夜想曲になりそうだ。

9.廃棄弁当の味

 深夜二時。  泣き疲れた良子は、目を赤く腫らしてパイプ椅子に座っていた。  私はバックヤードの隅にある電子レンジの音を聞きながら、湯を沸かしていた。

「……腹、減っただろ」  私が差し出したのは、どんぶりに入ったお茶漬けだった。  ただし、具は高級な鮭ではない。消費期限が切れて廃棄登録をしたばかりの、鮭おにぎりを崩したものだ。 「……これ」 「廃棄のおにぎりだ。茶漬けにすれば、まだ食える」  私は自分用のどんぶりにもお湯を注ぎ、永谷園のお茶漬けの素を振りかけた。  湯気と共に、海苔とあられの香ばしい匂いが立ち上る。

「食べなさい。東京じゃ、こんな貧乏くさい飯は食わなかっただろうけど」  良子はどんぶりを受け取ると、震える手で箸を持った。  そして、ズルズルと音を立てて一口食べた。 「…………」 「どうだ」 「……しょっぱい」  良子は鼻をすすった。 「しょっぱいわよ、お兄ちゃん……」 「売れ残りだからな。飯も少し硬くなってる」 「違うわよ……涙の味がするのよ……バカ……」

 良子はまた泣き出しそうになりながら、それでもお茶漬けをかき込んだ。  私も無言で食べた。  インスタントの出汁と、少しパサついたご飯。そしてコンビニおにぎり特有の塩気。  お世辞にも御馳走とは言えない。  けれど、温かかった。  十年ぶりに兄妹並んで食べる飯は、どんな高級料理よりも胃の腑に染み渡った。

「……私、働く」  どんぶりを空にした良子が、ポツリと言った。 「え?」 「ここで働かせて。レジでも掃除でもなんでもやる。……お兄ちゃんの言う通りよ。私、逃げてばっかりだった」  良子は顔を上げ、私を見た。その目には、来た時のような険のある光はなく、憑き物が落ちたような穏やかな色が宿っていた。 「雅子さんにも謝るわ。近所の人にも。……だから、もう少しだけ、ここにいさせて」

 私は、空になったどんぶりを置いた。 「……時給は最低賃金からだぞ」 「構わないわよ。実の妹を安く使うなんて、いい度胸ね」  良子が、少しだけ昔のような憎まれ口を叩いた。  私は苦笑して、立ち上がった。 「明日は六時起きだ。朝の品出しがある」 「げっ、早すぎでしょ……」 「文句を言うな。それが『生きる』ってことだ」

 事務室を出て、薄暗い店内を見渡す。  商品は整然と並び、冷蔵庫の明かりだけが静かに灯っている。  何も変わらない、いつもの景色。  けれど、空気は少しだけ澄んでいる気がした。

 明日の朝は、今日より寒くなりそうだ。  だが、一人で迎える朝よりは、マシかもしれない。  私はシャッターを下ろし、長い一日を終えた。

(第4話へつづく)

【第2話】 広まる噂と、ご近所の包囲網

スピンオフ:スマイルマートの夜想曲 〜渡る世間に福来たる〜

【第2話】 広まる噂と、ご近所の包囲網

4.商店街の情報網

(独白:石川泰介)

 田舎の商店街における情報の伝達速度は、光の速さを超えると言われている。  特に「不幸」や「スキャンダル」といった類のネタに関しては、5G回線も裸足で逃げ出すほどの高速通信網――通称「井戸端会議ネットワーク」が存在するのだ。

 良子が帰ってきてから三日。  スマイルマートのカウンターには、妙な視線が突き刺さるようになっていた。 「あら、石川さん。……妹さん、戻ってらしたんですって?」  レジで牛乳を買う近所の奥さんが、探るような目で聞いてくる。 「ええ、まあ。ちょっと骨休めに」  私が曖昧に笑うと、奥さんは「あらそう」と言いつつ、その目は『夫婦喧嘩でしょ?』『出戻りね』と雄弁に語っていた。

 原因は明らかだ。  良子が昼間から派手な格好で商店街をブラつき、あろうことか馴染みの八百屋で「東京のスーパーより野菜の鮮度が悪いわね」などと悪態をついたらしい。  さらに、私の留守中に店番をさせた(させられた)際には、客に対して「いらっしゃいませ」の一言もなく、スマホをいじりながら無言でレジを打ったという苦情まで届いていた。

 『石川さんのところの妹さん、東京で借金作って逃げてきたらしいわよ』  『旦那さんに三行半突きつけられたんですって』  噂には尾ひれがつき、背びれがつき、今や良子は「商店街の鼻つまみ者」として完全にマークされていた。  私はレジに立ちながら、胃のあたりがキリキリと痛むのを感じていた。  平穏だった私の城が、音を立てて崩れていく。

 そして、その「包囲網」の真打ちとも言える人物が、ついに動き出したのである。

5.お節介という名の嵐

 その日の午後、自動ドアが勢いよく開いた。 「泰介ちゃん! いるの!?」  入ってきたのは、商店街の婦人部を取り仕切る実力者であり、飲食店「かぐらや」の女将、神楽坂雅子(かぐらざか・まさこ)だ。  私とは小・中学校の同級生であり、腐れ縁の幼馴染でもある。 「なんだ雅子ちゃん。血相変えて」 「とぼけないでよ! 良子ちゃんのことよ!」  雅子はレジカウンターにバンと両手をついた。 「あんた、いつまであの娘(こ)を甘やかしてるつもり? 商店街中で噂になってるわよ。『スマイルマートの接客態度が最悪だ』って!」 「……耳が痛いよ」 「耳が痛いじゃ済まないわよ! あんたのお父さんとお母さんが、どれだけ苦労してこの店と信用を守ってきたか、忘れたわけじゃないでしょ!」

 正論だ。ぐうの音も出ない。  雅子はエプロンの紐を締め直すと、鼻息荒く言った。 「良子ちゃんはどこ? 二階?」 「ああ。寝てるんじゃないかな」 「真っ昼間から寝てる!? 冗談じゃないわよ。……ちょっと行ってくるわ」 「お、おい雅子ちゃん! やめたほうが……」  止める間もなく、雅子はバックヤードへの扉を開け、ズカズカと階段を登っていってしまった。  私は頭を抱えた。  混ぜるな危険。この二人が出会えば、化学反応どころか核爆発が起きる。

 数分後。  二階からドタドタという足音と共に、二人が降りてきた。 「ちょっと! 勝手に入ってこないでよ! 不法侵入よ!」  寝起きで髪を振り乱した良子が喚いている。 「あんたがいつまでも起きてこないからでしょうが! いい加減にしなさい良子ちゃん!」  雅子が良子の腕を引っ張って、狭い事務室に連れ込んだ。  私も慌てて後を追う。

「何なのよ雅子さん! 昔からそう! 偉そうに指図して!」  良子がパイプ椅子を蹴飛ばす勢いで座る。 「偉そうにしてるのはどっちよ! 泰介ちゃんに迷惑かけて、恥ずかしくないの!?」 「迷惑? 実の兄妹よ? 助け合うのが当たり前でしょ!」 「助け合う? 一方的に寄生してるだけじゃない! 三十過ぎて、自分の食い扶持も稼がずに、昼間からゴロゴロして……親が生きてたら泣いてるわよ!」

 ここから先は、まさに橋田壽賀子ドラマの名シーンさながらの、息つく暇もない長台詞の応酬となった。

「親の話を出さないでよ! お母さんはね、私に『東京で幸せになりなさい』って言ってくれたのよ! この街に縛り付けられて、コンビニのレジ打ちで一生を終えるような人生、私は真っ平ごめんなのよ!」 「職業に貴賤はないわよ! 泰介ちゃんがどれだけ真面目に働いてると思ってるの! あんたが東京で遊び惚けてる間、親の介護をして、店を改装して、この場所を守ってきたのは誰よ!」 「遊び惚けてたわけじゃないわよ! 私だって必死だったのよ! 知らない土地で、冷たい姑に仕えて、夫の顔色伺って……! 雅子さんに私の苦しみの何がわかるのよ! 田舎でのうのうと飲食店やってるだけのくせに!」 「なんですってぇ!? こっちだって楽してるわけじゃないわよ! 亭主の夢に付き合って、借金して、粉まみれになって店切り盛りしてるのよ! 苦労の種類が違うだけで、みんな歯食いしばって生きてるのよ!」

 言葉の弾丸が飛び交う。  過去の因縁、現在の不満、そして互いへの嫉妬と軽蔑。  私は二人の間に割って入ることもできず、ただオロオロと、沸騰したヤカンのような二人を見守るしかなかった。  女同士の戦いには、男が介入する余地など一ミリもないのだ。

6.中学生たちの目撃

 その時だった。  店舗の方から、入店チャイムの音が聞こえた。  ウィーン。 「……いらっしゃいませー」  レジを任せていたアルバイトの学生の、気まずそうな声が聞こえる。  私はハッとして、事務室のドアを少しだけ開けた。

 そこにいたのは、学校帰りの中学生たちだった。  神楽坂葵(雅子の娘だ)と、蒼井悠真、そして浜田健太。  彼らは一様に、強張った顔で事務室の方を見ていた。  この薄いドア一枚隔てた向こうで繰り広げられている怒号は、当然、彼らの耳にも届いていたのだ。

「……お母さん?」  葵が、不安そうに呟いた。 「なんか、すげー声聞こえるんだけど……」  健太が目を白黒させている。  悠真は、気まずそうに視線を泳がせていた。

 私は覚悟を決めて、事務室から出た。  背後でドアを閉め、中の音を遮断する(完全には無理だが)。 「……いらっしゃい。悪いな、取り込み中で」  私は精一杯の平静を装って言った。 「石川さん、あの……うちのお母さんが、迷惑かけてますか?」  葵が心配そうに私を見上げる。その目には、「大人の事情」に対する戸惑いと、申し訳なさが滲んでいた。 「いや、迷惑なんてことないよ。雅子ちゃんは……僕の代わりに、言いにくいことを言ってくれてるだけだ」  私は苦笑した。 「良子……妹とな、ちょっと意見が食い違っててね。大人の話し合いってやつだ」 「話し合いっていうか……喧嘩ですよね」  悠真が冷静に指摘する。 「まあ、そうだな。……家族っていうのは、近すぎると時々、こうなってしまうんだよ」

 事務室からは、まだ微かに「あんたなんか帰ればいいじゃない!」「帰るところがないから居るんでしょうが!」という怒声が漏れてくる。  中学生たちは、何も言えずに立ち尽くしていた。  いつも温厚な石川さん。いつも明るい「かぐらや」のおばちゃん。  そんな大人たちが、顔を真っ赤にして罵り合っている姿(声だけだが)は、彼らにとって衝撃だったに違いない。  大人の世界は、彼らが思っているほど綺麗でも、理性的でもないのだ。

「……今日は、買い物はいいから。帰りなさい」  私は彼らの背中を押した。 「葵ちゃん、雅子ちゃんには僕から言っておくから。夕飯の仕込みまでには帰すよ」 「……はい。すみません、石川さん」  葵は深々と頭を下げた。  悠真と健太も、「お邪魔しました」と小さく言って、店を出て行った。

 自動ドアが閉まり、彼らの姿が見えなくなると、私はドッと疲れが出た。  子供たちに、一番見せたくないものを見せてしまった。  地域の「灯台守」であるはずのコンビニが、今や嵐の中心地になってしまっている。

 私は再び、事務室のドアに手をかけた。  中ではまだ、第二ラウンドが続いているようだ。 「だいたいあんたは昔からそうなのよ! プライドばっかり高くて!」 「お兄ちゃんに言いつけてやる! 雅子さんがいじめたって!」

 やれやれ。  夜想曲ノクターン)どころか、これはデスメタルだ。  私は大きく息を吸い込み、修羅場へと戻っていった。  今日中に、この嵐を鎮めることができるのだろうか。  棚の商品よりも、私の寿命の方が先に在庫切れになりそうだった。

(第3話へつづく)